『ある文人学者の肖像:評伝・富士川英郎』

富士川義之

(2014年3月5日刊行,新書館,東京,446 pp., 本体価格3,600円,ISBN:9784403211065目次版元ページ新聞書評

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ある文人学者のタテの系譜とヨコの人脈

文人学者」といっても今ではもうリアルなイメージが湧かないかもしれない.ワタクシが思いつくまま名前を挙げれば,富士川英郎徳永康元由良君美,そして坂口謹一郎 …… ただし,いずれも本を通じて知っているだけだし.本書はそのような “今はなき” ある「文人学者」について,あるときには息子から見た父親として見上げつつ,またあるときは第三者として突き放しつつ詳細にたどった力作評伝だ.四六判450ページのハードカバー本を読み歩くにはそれなりの気力と腕力が必要だ.



前半150ページの第1〜6章では,主人公である富士川英郎の生い立ちとドイツ文学者になるまでの経歴が叙述される.著者いわく:「もはや絶滅危惧種と見なされている反時代的な「文人学者」が,いったいどのような存在であったのかを少しでも掘り下げることができたら,というのが,いまのわたしのささやかな願いでもある」(p. 53).ここまででまだ全体の1/3だ.先は長い.



続く第7章「昭和三十年代」(pp. 153-196)は,駒場比較文学専攻の教授時代の話がいろいろ.「彼らのような文人学者が大学内での主流であったわけではけっしてなかっただろう.だが,高度な専門家のみを大学は必要としているといった現代的な専門主義の重視は,当時はまだ大学内では大勢を制するまでにはいたっていなかった」(p. 165)|「文人学者に対してさえも,ある程度寛容な態度が示せるほどのいわば度量の大きさといったものが,おそらく大学内にはまだ残っていたのだろう」(p. 165)|「大学紛争以前の時代というのは,思えばある意味で現代とはほとんど比べようもないくらいまだおおらかで,のんびりとした牧歌的な雰囲気の残る時代であったと入ってもいだろう」(p. 166).



第8章「『伊沢蘭軒』をめぐって」(pp. 197-225).森鷗外による江戸時代の儒医の伝記『伊沢蘭軒』を富士川英郎が愛読していたことを手がかりに,ドイツ文学者だった父・英郎がなぜ江戸時代に関心をもつにいたったのかについて推論を巡らす息子・義之.富士川英郎と親交のあった科学史家・三枝博音のことばが引用されている:「人間だけでなく物がまた次ぎ次ぎに地上から消えていくのである.歴史家はものぐさであってはならない.歴史家の有為と史料の有為との競争である.地上から影をひそめゆく人と物象を追い求め,求め得た人と物の形像を復原するところに感じられる人間の切なさの感性的なもの,それが芸術としての史伝作品のいのちである.私にはそう思われる」(p. 210).富士川英郎をめぐる人間関係のネットワークが徐々に解きほぐされていくのがおもしろい.



富士川英郎自身の感想は:「それを読んでおりますと,何というか,人生の流れ,そういう儒医たちを中心にして,その時代および人生の流れといったようなものが感じられる.いわば一種の時間が感じられる.その中では有名,無名の人びとが次から次へと表明に浮かび上がっては消えていきます.……蘭軒一人の伝記というより,そういう一つの生活の流れ,しかも小説でなしに実際の事実をもとにした生活の流れ,といったものがそこに描かれているのであります」(p. 219)|「何でもない日常のことがそこに書かれていますが,それが鷗外の筆にかかると不思議に面白い」(p. 220).



そして,富士川義之はこう締めくくる:「読者がこの作品を読むためには,煩瑣な事実のひとつひとつと我慢強く付き合い,膨大な事実の集積から浮かび上がって来るその世界を経験するしかないのである」(p. 224)|「『蘭軒』を読んでいると,無常な人生の流れそのものが捉えられているように感じられて興趣がつきない.これが英郎が『蘭軒』を繰り返し愛読した究極の理由である.個々の人物たちの性格やら個性もさることながら,それらを超えて人物たちを動かしている無常な人生の流れそのもの,つまりは歴史というものがしかと感じられるところに比類ない『蘭軒』の魅力があると言うのである」(p. 225)– この血脈の連なりはただごとではない.


第9章「江戸後期の詩人たち」(pp. 227-252)と第10章「菅茶山の方へ」(pp. 253-287)では,富士川英郎がなぜホームグラウンドであるドイツ文学から江戸時代末期の漢詩文学という,いわば “畑違い” の分野に入っていったのかについて推察している.英郎にとって江戸漢詩の「二足のわらじを履く」というよりは,むしろ「華麗なる第二の人生」への転身というべきだろうと結論する.



第11章「富士川游のこと」(pp. 289-321)読了.さらにもう一世代さかのぼって,医学史家の祖父・富士川游について.血脈.富士川游はイェナ大学に私費留学したとき,エルンスト・ヘッケルの一元論哲学の影響を受け,帰国後,雑誌『人性』を創刊したとのこと(pp. 311-315).この雑誌は不二出版から復刻されている.



富士川游はその著書『日本医学史』で文学博士の学位を,そして続く『日本疾病史』で医学博士の学位をダブルで得たとのこと(pp. 310-311).富士川游『日本医学史』を日本学士院賞に推したのは『言海』の編者・大槻文彦.また,同書による東大医学部からの医学博士授与に反対したのは星新一の祖父・小酒井良精だった.めくるめく同時代的なヨコの人脈ネットワークが背後にある.



引用されている富士川游のことば:「人間は与えられた境遇で与えられた仕事をする為に生まれて来たのである.……それが好きとか嫌いとかいうのは人間の得手勝手の心持である」(p. 319).富士川英郎は山脇東洋を引用しつつ言う:「事物の観察を先きにし,それに基づいて立言すれば,平凡な人間も真理を語ることができるという.学者の覚悟を見事に語り得たこの名句がすでに江戸時代に現われていることにわれわれは注意しよう」(p. 320).世代を越えたタテの人脈ネットワークも垣間見える.



第12章「儒者の随筆」(pp. 323-346),第13章「茶前酒後」(pp. 347-361),そして第14章「失われたファウナ」(pp. 363-387)は富士川英郎晩年の読書随筆について論じる.「茶前酒後」の一節:「『茶前酒後』のような人文系の学者が書く読書随筆が,現在では,ほとんど絶滅危惧種と呼んでもいいくらい,激減しているのはいかにも寂しいことと言わなければならない」(p. 360)|「評論家やディレッタントならいざ知らず,れっきとした研究者でもある人間が,専門分化へとひたすら走りつづける時代の動きに全く逆行するようなこういう挙に出たのはなぜか」(p. 360)|「おそらく,学問や研究の成果というものは,必ずしも堅苦しい論文や論考だけではなく,もっと大らかでゆったりとした,遊び心さえ盛ることのできる形式を通じてでも発表できるものであるし,ぜひそうあってほしい」(pp. 360-361)|「いまや大学は文人学者のいるべき場所ではないと思うこともたびたびあったにちがいない」「退官後の,実に旺盛な仕事ぶりを振り返って見るとき,そこには最後の文人学者のひとりとしての矜持が感じ取れると言ってよい」(p. 361)



「失われたファウナ」から:「現代の学問は確かに専門的に細分化したためにきわめて精密なものとなったけれど,ともすると個々の専門的知識が孤立しがちであり,全体として有機的につながりにくい」(p. 386)|「その重要な原因は,大ていの場合,それぞれの知識に,言うなれば人間的・生活的な基盤が欠けているからではなかろうか」(p. 386)|「学問は必然的に学者の個人的な生活の歴史からは遠ざかり,しばしば人間味を忘却し,学者の人格の形成に深く関わるということも稀になる」(p. 386)


続く第15章「父とわたし」(pp. 389-411)と最後の第16章「晩年の父の記」(pp. 41 3-433)はごく内輪のひそやかな伝記.子どもが反発しようが受け入れようが,父親は長年にわたって影響力を及ぼし続ける.何世代にもわたる “学者家系” の「文化的資産」ははかりしれないものがある.目に見えたり見えなかったりする人脈・知脈のネットワークは「持てる者」には手を差し伸べ,「持たざる者」の頭上を通り過ぎていく.



著者は「意識的に思い出すという行為に耽ることがなければ,良い記憶も埋もれたままになってしまうということに,私は今度幾度となく気づいたのである」(p. 404)と書いている.日本では人物評伝はさらっと流したような薄手のものが多い.本書は例外的に,さまざまな資料と家族ならではの情報ソースを踏まえた読みでのある評伝だ.450ページを読み切るのは体力勝負だが,それほど遠くない昔の大学に実在したひとりの「文人学者」が生きた世界について知ることができた.



著者はエンディング近くで「そして最期に無頼の人としての父に出会ったのである.いつまでも自分の欲するがままに自然に生きる父の凄さを思うとともに,そんな無頼の父にわたしはいま限りないなつかしさを覚える」(p. 432)と書いている. “無頼” とは最上級の褒め言葉なり.



三中信宏(2014年5月11日)