『学術書を書く』

鈴木哲也・高瀬桃子

(2015年9月25日刊行,京都大学学術出版会,京都, vi+155 pp., 本体価格1,700円, ISBN:9784876988846目次版元ページ

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学術書は “三回り外” まで目を向けよ



本書は,専門的な「学術書」を出版する側から見たときのさまざまな問題点とその解決策について,具体的な事例を挙げながら論じている.出版企画が立ち上がってからの内容構成のポリッシュアップそして原稿執筆(第II部「書いてみる」),続いて実際に原稿がそろったあとの印刷所への入稿以後の工程への配慮,さらには見出しと索引の作成法にいたるまで(第III部「刊行する」),執筆する側には必ずしも見えていなかったことが本書には書かれている.しかし,ワタクシ的には,第II部と第III部に先立つ序章と第I部「考える」がとても考えさせる内容だったので,以下ではこの部分に焦点を絞ることにする.



冒頭の序章「Publish or Perish から Publish and Perish の時代へ ― なぜ,学術書の書き方を身につけるのか」(pp. 2-14)では,そもそも学術書を出版することにどのような意義があるのかを問いかける.ひとつの側面は科学コミュニティーのなかでの専門書の位置づけの変化である.20世紀末の科学における成果主義と競争原理のもとでは,研究活動のアウトプットとして専門的な出版物を出し続けなければ生き残れない(「Publish or Perish」)傾向がますます強まっている.序章では,その反映が学術出版の世界的傾向として現れていると指摘とされる.すなわち,出版物の売上額が全体として低下する中で,大学出版部の数は逆に増えているという事実は,研究成果としての学術書をたとえ出版したとしても読まれない(「Publish and Perish」)状況へと事態はさらに変わりつつあると著者は言う.



このような学術書をとりまく厳しい状況をふまえて,著者は次のように宣言する:


それでも研究者として評価されるためには,「Publish」の営みを続けなければならない.とすれば,「Publish」そのもののあり方を根本から見なおして,真に意味のある出版をしようではないか.学術書の書き方を考えることは,そのために大いに役に立つ,というのが本書の提案です.(p. 11)



続く第I部の第1章「知識か「情報」か ― 電子化時代の「読者」と知のあり方」(pp. 17-31)では,電子出版が広く普及した今の時代に,専門的な学術書を一般読者へどのようにアピールすればいいのかという問題を提起される.つまり,見えなくなってしまった読者をいかにして連れ戻せるのか.これは本書全体を貫く問題である.紙の出版物から電子出版物への移行は1990年代に入って急激に進む.その一方で,学術ジャーナルの電子化とともに,出力される論文の内容がどんどん狭隘化してきた(p. 25).著者は,この狭隘化は,学術「出版」が学術「情報」とみなされる背景と関係していたと指摘する(p. 28).確かに,学術書よりも雑誌論文が重視されてきた自然科学では,学術「情報」と言われてもあまり違和感はない:


しかし問題は,こうした考え方が,一つの体系としての歴史の中で組み上げられてきた「知識」を,単に個別に切り分けられたものとして見なしてしまうような雰囲気を醸し出したことではないか.(p. 29)



学術「知識」がひとつの体系(システム)であるならば,それを細分化した「情報」の破片との差異は明白だ.ワタクシが知っている範囲でも,最近の学術書の電子本のなかには,たとえ単著であっても,章ごとに「切り売り」されていることが少なくない.本全部ではなくどこかの章だけ買う人っているんだろうか.論文集だったらわかるけど,単一著者本の「部分買い」をする購入者の動機とその “読み方” がとても気になっている.



次の第2章「知の越境と身体化 ― 学術書の今日的役割と要件」(pp. 33-45)では,学術的な「知識」の体系としての学術書の意義について考察を深める.そもそも,断片ではないひとまとまりの体系としての「知識」はなぜ必要とされるのだろうか:


以上のような「狭隘化」の問題は,学部―大学院の接続だけでなく,高校から学部へ,あるいは大学(大学院)から実業界へという,進学・進路のあらゆる場で共通しているように思えます.大学院重点化等の制度的問題に加え,前章で指摘したように,必要な「情報」を必要なときに逐次的な参照すればよいという風潮が教育の場に広がったこと,あるいは「専門外の専門を学ぶ」重要性すなわち「教養」あるいはリベラル・アーツ重視の作法が失われたことが,こうした深刻な社会的状況を招いたのではないか,と筆者は考えているのです.(pp. 37-38)



このように,学術知の体系を習得する上で学術書にはまだ存在意義があると著者は言う.では,この目標を掲げた学術書はどのように書かれるべきか ― 著者は「二回り外,三回り外の専門家に向けた本」(p. 13)という巧みなモットーを提示する.視界から見えなくなってしまった読者を取り戻し,さらには偶然手にとった読者をも引き込むような学術書 ― 著者はそのような本造りをするための大技小技を,以下の第II部と第III部で開示していくことになる.



著者が勤務する京都大学学術出版会が出す「学術書」はいかにも「大学出版会の本」のイメージ通りの造本で店頭に並ぶ.しかし,「紙の本」の出版体裁は内容とはほとんど無関係といえる..とくに,近年多くの出版社が参入し,その結果 “変異” がとても大きくなった「新書」のスタイルだと,アタリハズレも少なくないし,不注意に手にすると “噛まれる” ことがある.たとえば,ワタクシが講談社現代新書から出した『系統樹思考の世界』と『分類思考の世界』の2冊の “書評頻度分布” を見ると,「新書なのに難しすぎる」という感想が意外に多い.



「新書だからきっと読みやすいだろう」という先入観は期待値としては当たっているかもしれないが,内容的な “分散” も無視できないほど大きい.講談社の担当編集者はかつて「コンテンツをたまたま “新書” というフォーマットに詰め込むだけです」と言っていた.だから,ワタクシの書いた現代新書2冊は「新書」という仮面をつけた専門書だと考えた方がいいだろう.“流動食” のような新書ではけっしてない.原稿の分量だってどちらも400字詰にして400枚以上書いたので,ハードカバー本で出せたかもしれない,しかし,ああいう晦渋な内容で(おいっ)専門書ジャンルとして出したら,印刷部数は大幅に少なく(重版も危ういだろう),価格はきっと数倍になり,必然的に読者は数分の一に減ったはず.新書,ありがとう(そこかっ).



内容的には学術書であっても,体裁的には新書で出すという出版戦略はきっとありえるだろう.ただし,担当編集者による “査読” はものすごくきびしくなる.提出した原稿のリジェクトや major revision,素行が悪いと “独房” 監禁さえある(複数の大手出版社の体験).新書だからといって好き放題書けると思ったら大間違い.編集者と校閲部のレフリーには脂汗が出た.



多くの潜在読者層にアピールするには努力に努力を重ねるしかない.それは学術書も新書も同じ.本書『学術書を書く』からは,学術書をつくる側の心意気が強く伝わってきた.それにしっかり応えるのは書き手の側にかかっている.



三中信宏(2015年11月6日)