『漢字ハカセ、研究者になる』書評

笹原宏之
(2022年3月18日刊行,岩波書店[岩波ジュニア新書・950],東京, xii+192 pp., 本体価格820円, ISBN:978-4-00-500950-3目次版元ページ

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メイキング・オブ・漢字ハカセ

本書『漢字ハカセ、研究者になる』は,その書名といい,ですます調のソフトな文体といい,てっきりジュニア読者層向けの「漢字本」かと思いこんで手にしたのだが,読了してみれば嬉しい方向に裏切られたことに気付かされる.本書は稀代の “漢字ハカセ” の「メイキング本」だったからだ.

 

もう15年も前になるが,著者の主著である:笹原宏之国字の位相と展開』(2007年3月31日刊行, 三省堂,東京,885+46 pp., 本体価格9,800円, ISBN:978-4-385-36263-2版元ページ)を読む機会があった.900ページを超える大著だったが, “国字” の起源と変遷そして地理的分布を考察した類書のない専門書だった.この本の「後記」にはおそるべき一文が書かれていた:

 

「思えば,些細な契機により小学生にして漢和辞典を眺める癖を覚えて音訳表記の抜き出しを始め,漢文を習わない段階で諸橋轍次先生の『大漢和辞典』を購入したのが中学生の時であり,高校に入ると杉本つとむ先生の『異体字研究資料集成』を揃え,それに触発され,種々の資料から国字を抜き出して辞書・索引のようなものを作り始めた.中国を中心に据えて漢字圏全体の漢字及び漢字系派生文字について学ぶことを志し,早稲田大学第一文学部に入ってからは中国文学専修に籍を置く」(p. 881).

 

この告白だけでもタダゴトではない.さらに,「序」に寄稿した野村雅昭は:

 

「世に,漢字少年や漢字博士と称される人は少なくない.しかし,その人が優れた漢字研究者になったと聞いたことはない.氏は,そのまれなる一人である」(p. vii)

 

とまで書いている.タダモノならざる著者の生い立ちがワタクシはとても気になった.

 

今回の新刊『漢字ハカセ、研究者になる』は,ワタクシが長年にわたって気になってきた疑問にみごとに答えてくれる自伝的な “メイキング本” だった.幼少の頃からの漢字と書物に対する執拗な “偏愛” ぶりは,読み終えて即座に「なんだ “同類” じゃないか」と深く納得した.そして安心した.

 

たとえば,分売不可であるはずの諸橋轍次大漢和辞典』の索引巻だけを書い直しに,まだ中学生だった著者が版元の大修館書店に “白い手袋” をして乗り込んだというエピソード(第3章, p. 46)は,のちに同社に入社した円満字二郎が耳にするほど “社内伝説化” していたという.これを “アンファン・テリブル” と言わずしてどうするのか.げにおそるべしおそるべし.

 

本書の想定読者層で漢字のプロ研究者になる率はきっと低いにちがいない.しかし,これくらいの “外れ値” (失礼)であっても,というか,桁外れの “外れ値” だからこそ,研究者として生きる道が拓けたというメッセージはワタクシにはとても説得力があった.ジュニア読者に向けられただけの本ではなかった.もちろん,著者が得意とする “漢字ネタ” はてんこ盛りで,ディテールにいたるまで読者をつかんで離さない.

 

漢字ハカセのご著書は,どういうわけだかすべてワタクシの書棚に勢揃いしている.せっかくの機会なので本書以外のものをリストしておこう:

 

  1. 笹原宏之日本の漢字』(2006年1月20日刊行,岩波書店岩波新書(新赤版)991], ISBN:4-00-430991-3書評目次版元ページ
  2. 笹原宏之国字の位相と展開』(2007年3月31日刊行, 三省堂,東京,885+46 pp., 本体価格9,800円, ISBN:978-4-385-36263-2書評概略目次第1部詳細目次第2部詳細目次第3部詳細目次版元ページ
  3. 笹原宏之訓読みのはなし:漢字文化圏の中の日本語』(2008年5月20日刊行,光文社[光文社新書352],274 pp.,本体価格820円,ISBN:978-4-334-034555-9 → 目次版元ページ
  4. 笹原宏之(編)『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(2010年11月1日刊行,三省堂書店,東京,x+901 pp., 本体価格3,500円,ISBN:978-4-385-13720-9版元ページ
  5. 笹原宏之方言漢字』(2013年2月25日刊行,角川学芸出版角川選書・520],東京,253 pp., ISBN:978-4-04-703520-1版元ページ
  6. 笹原宏之謎の漢字:由来と変遷を調べてみれば』(2017年4月20日刊行,中央公論新社中公新書・2430],東京, x+226 pp., ISBN:978-4-12-102430-5書評版元ページ|web中公新書著者に聞く」)

 

三中信宏(2022年5月2日公開)