橘宗吾
(2016年7月30日刊行,慶應義塾大学出版会,東京, xii+198+7 pp., 本体価格1,800円, ISBN:9784766423525 → 目次|版元ページ)
学術出版界でいまもっともぶいぶい言わせている名古屋大学出版会編集長の手になる本.売れないのに売れる秘策はあるのか.章立て:「序章 学術書とは何か」「第1章 編集とは何か:挑発 = 媒介と専門知の協同化」「第2章 企画とは何か:一つのケーススタディから」「第3章 審査とは何か:企画・原稿の 「審査」 をどう考えるか」「第4章 助成とは何か:出版助成の効用と心得」「第5章 地方とは何か:学術書の「地産地消」?」「付録 インタビュー「学問のおもしろさを読者へ」」.
ワタクシ的には,他の章よりも,実は「序章 学術書とは何か」(pp. 1-22)がもっとも印象に残った.本文が20ページそこそこなのに,その注が10ページあまりもある(pp. 167-177).いまの研究の趨勢の中での学術書の位置づけと著者なりの「学術書観」が浮かび上がってくる.著者は言う
「(電子ジャーナルを主とする)自然科学系の学問モデルの規範化が学術の世界全体で進み,それによって生じたのが,後述する,論文概念の無差別化・一般化と論文中心主義の全域化であり,書籍の軽視です.そこでは書籍は,こうした論文の束か,長めの論文だと見なされ,もしそうでないとしても,論文で書かれた内容を希釈した二次的な文章が掲載されるものと見なされる傾向が生まれます.そして論文がすべてそのまま電子化されるならば,紙の学術書にはもはや用がないか,二次的なものにすぎない.しかし,それは違う,というのが本書の考えです」(p. 15).
著者は論文=情報断片と書籍=全体体系を対置している:
「知識に情報としての側面があることを否定するつもりはありませんが,知識には,それを身につけようとすることによってその体系性・全体性に触れ,その全体を隅々まで知らないままそれを経験するという側面もあるでしょう」(p. 16).
著者が「情報には作者は存在せず,読者もまた存在しない」(p. 18)と言うとき,書籍は「作者」の手になる「作品」であるという著者の立場が浮かび上がる.書籍の書き手はサラミをスライスするのではなく,作品を創りあげることが求められている,と.
昨年読んだ:鈴木哲也・高瀬桃子『学術書を書く』(2015年9月25日刊行,京都大学学術出版会,京都, vi+155 pp., 本体価格1,700円, ISBN:9784876988846 → 書評|目次|版元ページ)と比べると,この『学術書の編集者』はかなり “硬派” で,ちがった視点を読者に提供している.並べて読むといいと思う.
『学術書の編集者』を読み終わって,この6月に出版された Willi Hennig 生誕百年記念論文集:David M. Williams, Michael Schmitt, and Quentin D. Wheeler (eds.)『The Future of Phylogenetic Systematics: The Legacy of Willi Hennig』(2016年6月刊行, Cambridge University Press[The Systematics Association Special Volume Series: 86], Cambridge, xvi+488 pp., US$155.00 / £99.99, ISBN:9781107117648 [hbk] → 目次|情報|版元ページ|「英文の論文集に寄稿する」)に寄稿したとき,編者のひとりとのやり取りで,彼がけっして「論文(paper)」と呼ばず,必ず「作品(piece)」と書いていたことをふと思い出した.