『モービー・ダック』読売新聞書評

ドノヴァン・ホーン[村上光彦・横濱一樹訳]
(2019年7月15日刊行,こぶし書房,東京, 654 pp., 本体価格2,800円, ISBN:9784875593515目次版元ページ
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読売新聞大評が公開された:三中信宏アヒルちゃんの大冒険 —— モービー・ダック ドノヴァン・ホーン著 こぶし書房 2800円」(2019年9月29日掲載|2019年10月7日公開)



ヒルちゃんの大冒険

 『モービー・ダック』というタイトルはハーマン・メルヴィル作の古典『白鯨(モービー・ディック)』にちなむ。1992年1月、香港発ワシントン州タコマ行きのコンテナ輸送船エヴァー・ローレル号がアリューシャン列島近海で大波に翻弄され、甲板に積み上げられていた3万個もの“浴用玩具”(子供がお風呂で遊ぶ黄色いアヒルなど)が荒れた海に落ちてしまった。この海難で北太平洋に投げ出された大量のプラスチック製アヒルたちはその後何年にもわたって洋上を漂流し、北米のあちこちの海岸に漂着し目撃されることになる。本書はこのアヒルの“大航海冒険物語”の顛末を追った広範かつ詳細な記録だ。教師の職をなげうってまで追跡し続けた著者の執念は確かに『白鯨』の主人公である“エイハブ船長”を髣髴とさせる。

 かわいらしいアヒルのイメージからは想像もできないほど本書の内容は多岐にわたる。全650ページを読み進むうちに、読者は、海岸漂着物を蒐集するビーチコーマーなる北米のサブカルチャー集団に出会い、相次ぐ海難事故の秘められた歴史に思いを馳せ、広大な海を漂流するプラスチック・ゴミがもたらす海洋汚染問題にたどり着く。さらに、著者は中国の玩具製造拠点である珠江デルタ経済区の東莞に潜入し、かつてのエヴァー・ローレル号とほぼ同じ航路をたどる輸送船にも乗りこみ、はては北極圏調査船に同乗して氷の海を突き進む。その突撃精神には驚くばかりだ。

 ただのおもちゃの追跡劇にしては本書の舞台設定はあまりにも大仰すぎるかもしれない。しかし、文字通りの“知的ごった煮”の波間に見え隠れするのは、著者自身の人生航路だ。エイハブ船長が白鯨との格闘の末にピークオッド号とともに海に沈んでも、海を漂うアヒルたちがいずれぼろぼろに劣化してプラスチックの破片と成り果てても、著者の“自分探し”の旅路に終わりはない。村上光彦・横濱一樹訳。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2019年9月29日掲載|2019年10月7日公開)