『時間と生命:ポスト反生気論の時代における生物的自然について』

米本昌平

(2010年9月10日刊行,書籍工房早山,東京,474 pp.,本体価格4,200円,ISBN:9784904701225目次版元ページ

【書評】※Copyright 2010 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

どうしてドリーシュなんですか?



著者は,三年前に同じ出版社からドリーシュの訳本:ハンス・ドリーシュ著(米本昌平訳・解説)『生気論の歴史と理論』(2007年1月30日刊行,書籍工房早山,東京,xviii+363 pp., ISBN:4886115047目次版元ページ)を出版している.



当時は「なぜいまドリーシュ?」と怪訝に思ったものだが,この新刊を手に取って,著者がマジでもう一度「生気論」と「目的論」をひっくるめてリバイバルさせるつもりであることを知った.古い邪悪な想念を召還してしまったこの本は,手に取る人があまりいないまま(きっとそうなるだろう)放置すれば「付喪神」になりかねない.個人的にリクツっぽい厚い本が好きだったので,なかば除霊儀式として通読したのだが,「ニウラド世界」,はい? 闇の神を登場させてどーするつもりよ,いったい.観念王の降臨か.今西錦司の進化論や柴谷篤弘流の構造主義生物学までまたぞろ登場させている.そういうヨロイを隠したまま,ネガティヴ・パラダイムだの生命論だの笑止千万.



著者は,かつての物理万能主義を排しつつ生物学がこれから進むべき道を模索しようとしていることは理解できる.しかし,生物学のもつ「歴史科学」としての性格は生物学哲学がすでに何十年も前から認識していることだし,学問対象が「歴史性」をもつことは,シンプルな“物理学への還元”がそもそも不可能であることを意味している.しかし,著者がスローガンのように掲げる「生而上学」は,著者の考えとはうらはらに,きわめて「物理臭い」公理論的主張の連続ではないだろうか? 私は Joseph Henry Woodger が没後40年にして再降臨してきたかと誤解したほどだ.



本書を「アブナい地雷原」として見れば,それはそれでとても魅惑的ではある.しかし,三島由紀夫の「檄文」さながらの覚悟のほどは見物ではあっても,著者以外の他の読者が本書を読んでも得るものは乏しいと私は判断する.エルンスト・ヘッケルらの著作が翻訳されている箇所は(個人的には)楽しめたんだけどね…….



要するに,観念論はいつでもどこでも息を吹き返すということだ.



なお,本文中のドイツ語の間違いがあまりにも多すぎて(日本語の地の文も校正ミスが頻発している),そのつど思考停止してしまうのはかんべんしてほしい(ちゃんとゲラ読みをしていないんじゃないだろうか).また,500ページにも達する大著であるにもかかわらず,引用文献リストもなければ人名索引・事項索引すらない.手書きのフィールドノートならまだしも,これでは専門書としての体をそもそもなしていないのではないか.著者自身,最後のところで本書のたどるであろう暗い未来を予見しているが,確かにその通りになるだろう.内容はもちろんのこと,書籍としての形式の点でも.



三中信宏:2010年10月15日)