「Togetter - 邦訳の重要性と「直接性の原理」」

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ワタクシは,これまで何冊か英語からの翻訳書を出版したことがあるが,あくまでもパーソナルな「読書」の延長線上に「翻訳」という作業があった.幸いなことに出版元から書籍流通に乗ったのでパブリックな性格をもった本となったが,基本的にはパーソナルな読書のひとつのアウトプットにすぎない.だから,自分が訳した本がほかの読者にとって何かの役に立ったとしたら,それは望外の喜びと言うべきだろう(この点については著書も訳書もちがいはない).もちろん出版社的にはたくさん売れた方がいいに決まっているし,訳者としてはそのための販促に務めることにけっしてやぶさかではない.翻訳者的には「私的読書の延長」,読者的には「売っててよかった」,批判者的には「もうやめろよ」 - ということで,これからも翻訳書は売られ続けるにちがいない.

たとえば進化生物学の著名な教科書はいろいろな言語に翻訳されている.翻訳書を求める読者はどこの国にも必ず存在するので,それが役立っていることは誰にも否定できない.自然科学系にかぎって言えば,翻訳書「を」学び,翻訳書「で」学ぶというのが大多数の日本の学生がたどるコースだろう.先ごろ重版が決定した:「科学」編集部(編)『科学者の本棚:『鉄腕アトム』から『ユークリッド原論』まで』(2011年9月27日刊行,岩波書店,東京, x+264 pp., 本体価格2,600円, ISBN:9784000052122版元ページ目次など追加情報)を見ても,多くの研究者は学生の頃に感銘を受けた翻訳書があると語っている.このように,翻訳を通して科学理論や科学的主張が広まっていくことはまぎれもない事実なのだから,それはそれでちゃんと正当に評価するべきである.

さらに言えば,翻訳書が「科学」にとって意義がないという主張は,たとえば Willi Hennig の英訳本『系統体系学』(1966)が出版されたからこそ「分岐学派(cladistics)」が成立し得たという一例を挙げるだけであっさり反証される.別の例を挙げると,Charles Darwin の『種の起源』(1859)の独訳版が翌年(1860)に早々と出版されなかったとしたら,若き Ernst Haeckel がダーウィニストに転向したかどうかわからない.そのような科学史的事例は枚挙にいとまがないだろう.

もちろん,研究上の引用をする場合には原書がないと話にならないので,科学者業界にいる人々はたとえ何語であろうとも原書を手元に置く必要はあるだろう.この点に関して言えば,昨今の「英語オンリー」で突き進む風潮のしっぺ返しの方がよほどコワいと思う.実際,第二外国語や第三外国語のリテラシーのない“理系研究者”がまわりでどんどん増えている実感がある.科学における lingua franca としての英語は言語ではなくむしろ表現ツールとみなせばいい.それが英語の宿命だろう.しかし,日本語も含めて英語以外の言語にぜんぜん目が向かないというのはどういう“群集心理”なのだろうか.

日本語ですら“英語以外”ということで業績評価的に軽視されるようなインセンティヴの低さでは,科学者による科学コミュニケーションとかアウトリーチと言ったって単なるポーズあるいはリップサービスに終わってしまうだろう.少なくとも原著論文を英語でどんどん出していくという研究者ライフスタイルは,世代とともに徐々に変わっていくのが自然なのではないだろうか.いくつになってもプロ野球の現役選手であり続けた“アブさん”のようなスーパーマンは研究者の“モデル”ではありえない.

—— ただし,翻訳という作業は日本語と外国語の間で格闘する“気迫(覚悟)”が必要なので,誰も彼もがこの世界に入る必要はないだろうと思う.一冊翻訳するとしばらくの間は使い物にならなくなっているワタクシがいる.うちわのためだけの「翻訳」と読者に金銭的代価を求める「翻訳」とはそもそも異なっているから.