「学者どもに翻訳をやらせるなっ」

The cape of an island の三連記事:

早い話,いまの研究者や大学のセンセに翻訳なんかしているヒマないって.対外的(業績評価とか)には「利得」はほとんどないようなもんだし.やるとなったら,手練のプロの翻訳者と共訳するのがベストのやり方だと思う.ただし,ある本を翻訳して出版社からいただく印税分配は研究者でもプロの翻訳者でも同一なので,印税収入を考えると,確実に増刷がかかるような翻訳を出さないといけない.それはそれでプレッシャー.たとえば,1000部しか刷らない高い学術書の翻訳じゃ,そもそも出してくれる出版社がないだろう.ワタクシだって学術書の翻訳はほとんど手がけたことはない(エリオット・ソーバー過去を復元する』は例外です).

専門学術書は,それをまたいで通れないかぎられた研究者が原語で読めばいいわけで,あえて翻訳の必要はないだろう.一般向けの本でしかも自分の専門分野に重なるものだと初めて食指が動く.ただ,多くの研究者は翻訳技術が乏しいのでひとりでやろうとすると大迷惑のリスクが高まる.一般書でも専門書でも,翻訳の動機は “自分のためにやっている” 場合がほとんどなので,印税のこととか考えていない.翻訳する研究者の側としては「いつかどこかでだれかの役に立つかもしれない(=売れなくてもいい)」という公共的ボランティア精神で訳すしかないのか.しかし,それでは商業出版の “オキテ” に背くことになるかもしれない.

となると,なんでもかんでもプロの翻訳者とコラボすりゃいいってわけではないことは確かで,「利害が一致するかぎり」という条件が必要になる.たとえ,「印税生活」ということばが夢物語であるとしても.

一方で,そもそも翻訳なんか不要だという見解もたしかにあるかと思う.でもねー,じゃあオマエ,英語はもちろんフランス語やドイツ語やイタリア語の本をごろ寝して苦もなく読み進められるんですかとか詰問されたら返答に窮するでしょう.どこかの誰かが訳してくれた(質のいい)翻訳書があれば読者にとってきっと利得になるのは確かだろう.

[ここまでの部分の加筆修正:31 July 2014]

ここで問題なのは,「誰か訳してくれないかなぁ」という本があったとして,翻訳によって期待される読者側の「利得」と翻訳するのに必要な訳者側の「コスト」との不均衡があまりにも大きいという点だ.ちゃんと訳せて当然,クォリティーの低い訳文だとけちょんけちょんに叩かれるという境遇に自ら進んで身を置きたい研究者は,よほど奇特な人を除けば,ほとんどいないと思う.

プロの翻訳者のみなさんとはまったくちがう心構えであることは重々承知の上で言うなら,研究者の立場から言えば,翻訳を1冊こなしたら,向こう10年間くらいは「翻訳者」という言葉は禁句にしたい気分であることはまちがいない.

—— この件に関連するツイートは:Togetter -「学術書翻訳の現在:2014年7月30日」 にまとめられている.ワタクシの場合「人文書」ではなく「科学書」の翻訳を念頭に置いて発言しています.

[ここまでの部分の加筆修正:1 August 2014]