『言語の興亡』

R. M. W. ディクソン[大角翠訳]

(2001年6月20日刊行,岩波書店岩波新書・新赤版737],東京,vi+221+13 pp., 780円[本体価格], ISBN:4004307376

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保全言語学の本:ダニエル・ネトル&スザンヌ・ロメイン『消えゆく言語たち:失われることば,失われる世界』(2001年5月29日刊行,新曜社ISBN:4788507633書評・目次)のなかに次のようなくだりがある(訳書, p.135):


巨視的な規模で見た場合,二,三〇〇年前のパプア・ニューギニアは,おそらく,近年ボブ・ディクソンが「言語平衡」と呼んでいるものの一例を示している.このことばの意味するところは,言語の数がほぼ一定していて,どの集団,あるいはどの言語も,他の集団や言語を犠牲にして急速に拡大していないということである.「平衡」とは,個々の言語の特性というよりは,むしろその国全体の特性である.



原書:Daniel Nettle and Suzanne Romaine『Vanishing Voices: The Extinction of the World’s Languages』(2000年刊行,Oxford University Press, Oxford, xii+241pp., ISBN:0195136241書評・目次)を読んだとき,ここでいう「平衡」の意味が私にはよくわからなかった.おそらく他の読者にとっても,この「言語平衡」は『消えゆく言語たち』の中でもっとも理解しにくい概念のひとつだろう.



しかし,今回実にタイムリーに翻訳されたディクソンの『言語の興亡』を読むと,彼の言う「平衡」がグールド&エルドリッジの提唱した古生物学の「断続平衡モデル」における“stasis”を指していることが判明する.



言語の興亡』は著者の主張が鮮明に示された本である.著者がわざわざ「断続平衡モデル」に目をつけたそもそもの動機は,歴史言語学における「系統樹モデル」への疑念に発している.シュライヒャーの系統樹モデルとシュミットの波紋モデルは,歴史言語学における対立パラダイムとして有名だが,ディクソンはこの両者は断続平衡モデルのもとで統一できるのではないかという仮説を立てる(pp.4-5).



言語進化に適用された断続平衡モデルのもとでは,ある地域の言語群は長期にわたる平衡状態のもとで【言語圏】−「ちがった語族に属する言語が複数存在し,そのような言語がそれぞれ地域外の少なくとも一つの同語族の言語に見られないような言語特徴を共有しているような地域」(p.22)−を形成していく.私が理解した範囲では,言語圏とは生物地理学でいう areas of endemism に相当する地理的概念である.平衡期には言語の相互借用を通じて,ある「収束」が生じているとディクソンは考えている.この平衡が何らかの原因(自然・経済・社会など)で中断されるとき,言語は急速に「拡張-分裂」(p.129)の過程を経て,祖語からの由来による類縁族が生じる.



著者は,「分断」期には系統樹モデルがうまく適用できるが,「平衡」期にはむしろ系統樹も出るではなく,地域伝播に基づく言語圏モデルがよりよくあてはまるだろうと考えている(p.198).言語系統の収束(平衡)と分岐(分断)のサイクルによる著者自身の言語進化観−図6-1(p.140)の模式図−を断続平衡モデルによって表現したと私は理解した.



言語系統学に地理的な次元を積極的に導入するという著者の意図には私も同意できるのだが,それが比較法に基づく言語系統推定そのものへの批判になぜつながるのか,その点が私には納得できない.たとえば,祖語が実在しないという批判,あるいは「比較法」は適用できないという批判は,確かに推定の過誤の可能性を指摘している点では正しいのだが,その批判の内容は,著者が進化プロセスに関する「モデル」と歴史推定の「ロジック」とを単に混同しているに過ぎないからだと私は考える.



むしろ,著者の「言語進化モデル」が経験的にどのようにテストできるのかを考えたとき,そのよりどころは言語系統関係のより精密な推定以外にはありえないのではないか.私としては,言語系統学と言語地理学のさらなる合体を著者は目指しているという積極的なメッセージを本書から汲み取りたい.



本書の言語進化観については上述のように根本的な欠陥があると私は見るのだが,実践に向けての著者の提言には全面的に同意する.著者は,なぜいまの言語学者はフィールド・ワークを軽視するのかと批判し,「本当になすべきことはただ一つ−現地に行き,言語を記述すること!」(p.207)と檄を飛ばす.オーストラリアの現地語族の広範なフィールド・ワークをこなしてきた著者のメッセージには重みがある.



三中信宏(2001年12月11日/2013年2月24日加筆)

hellog〜英語史ブログ「#1397. 断続平衡モデル」(2013年2月22日)では,この言語平衡説が取り上げられている.Quentin D. Atkinson et al. 2008. Languages Evolve in Punctuational Bursts. Science 1 February 2008: Vol. 319 no. 5863 p. 588, DOI: 10.1126/science.1149683 → abstract でも言語平衡が論じられている.言語系統樹上での ultrametricity からのズレを言語クレードごとの進化速度の「差」とみなすのはぜんぜん問題ない.分岐点を基準にした言語進化速度のズレが有意に異なるかどうかはおもしろいテーマだと思う.しかし,それを「分断平衡モデル」と結びつけるのは得策ではない.

分断平衡説(punctuated equilibria)は単なる進化プロセス仮説ではなく,背後に背負った科学哲学的・思想的な背景が重すぎる “進化観” なので,あまり気軽に覚醒させない方が身のためだと思う.進化学者は分断平衡説は進化プロセス理論であると受け取られているフシがあるが,N. Eldredge & S. J. Gould の元論文:Niles Eldredge and Stephen J. Gould (1972), Punctuated equilibria: An alternative to phyletic gradualism. In: T. J. M. Schopf (ed.), Models in Paleobiology. Freeman, Cooper & Company, San Francisco. Pp. 82-115 pdf [open access] の冒頭部分をちょっとでも読んだら目が覚めるはず.

Stephen J. Gould はいわば “安倍晴明” みたいなキャラで,古今東西の “妖怪ども” を操っていた陰陽師のような役回りだった.分断平衡論文(1972)もスパンドレル論文(1979)もそう.寝た子をみだりに起こしてはいけない.

【目次】
謝辞 i
はじめに 1

第1章 序説 9

第2章 ことばの伝播と言語圏 21

 1.何が伝播するか 26
 2.言語の接触で起こること 31

第3章 系統樹モデルはどこまで有効か 41

 1.系統関係の基準 45
 2.祖語 61
 3.祖語の古さ 63
 4.下位分類 66

第4章 言語はどのように変化するか 77

 1.言語内部の変化 78
 2.言語の分裂 83
 3.言語の起源 88

第5章 断続平衡モデルとは何か 95

 1.平衡状態での言語 97
 2.中断期の始まり 103
 3.三つの移住例 116

第6章 再び祖語について 135

第7章 近代西欧文明と言語 143

第8章 今,言語学は何を優先すべきか 161

 1.なんでわざわざ記録するか 163
 2.現代の神話 178
 3.言語学者は何をすべきか 187

第9章 まとめと展望 195

 1.断続平衡モデル 196
 2.比較言語学について 198
 3.記述言語学について 201
 4.現代の言語 203


補論 比較方法の発見手順では見誤ってしまうもの 209
訳者あとがき 215
参考文献 (1-13)