『蚕の城:明治近代産業の核』

馬場明子

(2015年8月10日刊行,未知谷,東京, 154 pp., 本体価格1,600円, ISBN:9784896424782目次版元ページ

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我が蚕は永遠に不滅です



日本の養蚕業を支えた養蚕学の歴史をたどっためずらしい本.著者は,関係者への丹念なインタビューとともに,日本各地はもとより,さらにはメンデルの故郷であるモラヴィアにまで足を伸ばして,養蚕学の長い学統がいまなお着実に伝承されている経緯をたどる.厚い本ではけっしてないが,養蚕学とその後継である昆虫遺伝学のいまを知る上で貴重なルポルタージュに仕上がっている.



本書の「語り部」として繰り返し登場するのは,九州大学農学部附属遺伝子資源開発研究センターで蚕の系統保存を担当してきた伴野豊教授である.動植物の系統保存のためにはまちがいが許されない作業が長期間にわたって続く.第1章「風穴」冒頭の蚕種保存のエピソードはとても印象に残る.信州や上州の自然風穴を利用した蚕種の冷蔵保存は,養蚕業が爆発的に発展した明治時代にはさかんに利用され,蚕糸の安定供給に大きく貢献した.九大では数百にものぼる蚕の純系を確実に保存するため,あえてその風穴を利用して蚕種の分散保存を行なっているそうだ.



第3章「日本の遺伝学は蚕から始まった」以降の数章では,養蚕学の理論的バックグラウンドとなった昆虫遺伝学の歴史をさかのぼる.外山亀太郎を始祖とする日本の昆虫遺伝学は蚕の遺伝様式の研究によって強力に推進された.外山は東大農学部養蚕学の教鞭を執ると同時に,高円寺にあった蚕糸試験場でも研究を続けた(マイマイガの遺伝を研究した Richard B. Goldschmidt を日本に招聘したのは外山だったと彼の自伝に記されている).その外山の弟子が,九大農学部養蚕学講座で教授職にあった田中義麿である.養蚕業が日本の中核産業として繁栄した時代には,東大や九大をはじめ,方々の大学の農学部や工学部に「養蚕学」を関した研究室があった.



本書の後半になると,明治時代から現代にまで連綿と続く蚕の継代保存の苦労話や逸話が数多く語られる.九大で系統保存の作業に従事している技術職員が「ここの世界は一〇〇点か〇点です」(p. 129)と語るのはまさにその通りだろう.純系が一度でも交雑してしまえば一巻の終わりだから.必ずしも「すぐに役立つ研究」とはいえない蚕の系統保存を一世紀にわたり飽くことなく続ける彼らを著者は「求道者」と呼ぶ.蚕にかぎらず,ショウジョウバエでもイネでも,実利を求めない永続的な系統保存は外から見れば確かに “求道” のように見えるかもしれない.さらに言えば,科学の世界でのそのような “求道” は系統保存だけではない.しかし,著者も指摘するように,科学にとってきわめて重要な意義をもつ “求道” としての仕事がけっして俗世から切り離されてはいない点をもっと強調してよかっただろう.



本書に登場する蚕の研究者たちは総体としては多くはない.焦点を絞ってじっくり取材をするというのが著者の基本姿勢なのだろう.本書を読了すればわかるように,養蚕学は昆虫遺伝学を介して昆虫ゲノム研究というもっとも現代的な研究分野につながっている.産業としての栄枯盛衰が学問分野の行く末を大きく左右した典型的な事例のひとつが養蚕学だった.かつての蚕糸試験場には何百人もの研究者が在籍していたという.蚕糸試験場はその後つくばに移転して蚕糸・昆虫農業技術研究所と改組改名され,現在では農業生物資源研究所に合併されて現在に至っている.多くの養蚕学研究者たちは養蚕業の衰退とともにどのような研究者人生を歩んだのだろうか.



思い起こせば,養蚕学との個人的なつながりがないわけではない.私事になるが,ワタクシの大学院時代の指導教官だった斎尾乾二郎教授は,東大理学部数学科から学士入学で農学部に入り,卒業後は蚕糸試験場で生物統計学の研究を続けたのちに,東大農学部生物測定学教室に赴任した.また,ワタクシの学位論文の副査のひとりは,かつての外山亀太郎に連なる東大農学部養蚕学教室(現・昆虫遺伝研究室)の吉武成美教授だった.



長い歴史をもつ養蚕学は想像以上に広い研究領域を含んでいたにちがいない.そのなかでもとくに蚕の系統保存研究がたどってきた歴史を中心テーマに置いた本書はワタクシにとってとても興味深い本だった.文献リストと索引があればさらに資料的価値が高まっただろう.



参考文献:

  1. 伴野豊 2008. カイコリソースの起源に関する情報. ニュースレターおかいこさま, (13): 2-3. [pdf]
  2. Richard B. Goldschmidt 1960. In and Out of the Ivory Tower: The Autobiography of Richard B. Goldschmidt. University of Washington Press, Seattle, xiv+352 pp. → 目次
  3. Lisa Onaga 2010. Toyama Kametarō and Vernon Kellogg: Silkworm Inheritance Experiments in Japan, Siam, and the United States, 1900–1912. Journal of the History of Biology, 43(2), 215-264. [abstract]
  4. Lisa Onaga 2012. Silkworm, Science, and Nation: A Sericultural History of Genetics in Modern Japan. Doctoral Dissertation. Cornell University [abstract]
  5. Lisa Onaga 2015. More than Metamorphosis: The Silkworm Experiments of Toyama Kametarō and his Cultivation of Genetic Thought in Japan’s Sericultural Practices, 1894–1918. [abstract]. Pp. 415-437 in: Denise Phillips and Sharon Kingsland (eds.) New Perspectives on the History of Life Sciences and Agriculture. Springer-Verlag[Series: Archimedes, volume 40], Berlin, ISBN:9783319121840版元ページ
  6. Sarah Seiter 2011. Butterflies and Science | Silkworms and Samurai: How Butterflies Shaped Modern Science in Japan | 9 July 2011.


三中信宏(2015年12月5日)