『大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件:なぜ美しい羽は狙われたのか』読売新聞書評

カーク・ウォレス・ジョンソン[矢野真千子訳]
(2019年8月10日刊行,化学同人,京都, 381 pp., 本体価格2,800円, ISBN:9784759820133目次版元ページ

読売新聞大評が紙面掲載された:三中信宏盗まれた羽根の行方 —— 大英自然史博物館 珍鳥標本盗難事件…カーク・ウォレス・ジョンソン著 化学同人 2800円」(2019年11月17日掲載|2019年11月25日公開).



盗まれた羽根の行方

 本書は稀有の盗難事件を取り上げたノンフィクションだ。舞台はロンドン郊外のトリングにある鳥類コレクションを集めた大英自然史博物館分館。盗難犯エドウィン・リストは、真夜中にこのトリング博物館に侵入し、数々の貴重な鳥類標本を標本庫の引き出しから盗み出した。以前、評者はある博物館のバックヤードで鳥の「仮剥製標本」を見せてもらったことがある。展示室で一般公開される「本剥製標本」は生前の外観を模してきちんと整形処理されているが、科学研究用資料である仮剥製標本は引き出しの中に無造作に並べられているだけだ。その仮剥製標本が狙われた。

 プロのフルート奏者を目指していたリストはなぜこんな窃盗に手を染めたのか。本書のストーリー展開はここから意外な方向に急展開していく。盗まれた鳥の羽根はフライ・フィッシング用の毛針(フライ)の製作に用いられたのだ。幼少時から毛針づくりに天性の才能をもっていたリストは、ある伝説の毛針に欠かせないが、現在ではもはや入手不能な鳥の羽根を手に入れるため博物館に侵入した。著者は毛針製作者の地下ネットワークに入り込み、ときに高額で取引される珍奇なフライのもつ魅力と魔力を存分に描き出す。傑出した毛針製作者は魚釣りそのものに興味があるわけでは必ずしもない。究極の毛針をつくること自体が目的となる。

 方向の異なるふたつの“蒐集慾”のぶつかり合いが本書のおもしろさだ。近代的な自然史博物館は生物多様性の科学的解明を目的として生きものを蒐集し、多様な動植物を知り尽くすためにコレクションを蓄え続ける。一方、昔ながらの毛針製作者は稀少な素材を用いて自らが理想とする毛針のコレクションを完成させようとする。両者ともコレクションを蒐集しようとする並外れた偏愛ぶりでは何のちがいもない。人間にとって蒐集は根源的な“業”である。矢野真千子訳。

三中信宏[進化生物学者]読売新聞書評(2019年11月17日掲載|2019年11月25日公開)



自然史系博物館のバックヤード事情とか現代社会での存在意義(科学的貢献も含め)については,他書を見ればもっとくわしい情報が得られるだろう.しかし,本書のおもしろさは,この “ミュージアム軸” に対して,もうひとつの “フライ・フィッシング軸” を重ねた点にある.

近代の自然史系のミュージアムは動植物のコレクションづくりに尽力してきた.他方,本書に詳述されている通り,フライ・フィッシングの「毛針(フライ)」製作の伝統は別次元のコレクションを(後ろ暗いアンダーグラウンドで)つくり上げてきた.コレクションという行為の歴史をさかのぼるならば,ともにかつての “ヴンダーカンマー” という共通祖先にたどり着く.

したがって,この両者に共通する深層動機はコレクションを可能なかぎり充実させよう,できれば完璧を極めたいという “蒐集慾” にほかならない.ミュージアム軸とフライ・フィッシング軸というふたつの “蒐集慾” が交差した場が真夜中の大英自然史博物館だったというオチを読み取って,評者であるワタクシは深く納得した.