『Rachel Carson: Witness for Nature』

Linda Lear

(1997年刊行,Henry Holt and Company, New York,xviii+634pp.,ISBN:0805034277 [hbk] → 目次



【書評】

※Copyright 2000, 2008 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved


言わずと知れた『沈黙の春』の著者である Rachel Carson の伝記はすでに何冊も出ているようですが(日本語訳もあるとのこと)、おそらく本書は最近出た Carson の伝記の中ではもっとも詳細な1冊ではないかと思います。本書は650ページを越える厚い本ですが、詳細な伝記のもつ味わいは格別です。

私は本書を読んで、Carson の詳細な経歴についてはじめて知ったのですが、公私ともに激しく厳しい人生を送った人なのですね。

1907年の誕生に始まり1964年の死に致るまでの Rachel Carson の生涯を多くの一次資料と関係者へのインタビューそして交わされた書簡を通して明らかにしています。おそらく本書で初めて明らかになった事実も多いだろうと思われます。

本書で興味深いのは、Carson 自身の struggle もさることながら、今世紀初頭のアメリカでの女性研究者の生活ぶり、当時の官民の間での環境保護運動保全活動のようす、科学ジャーナリズムの実態、そして科学界の中での性差別の数々です。

前世紀末から今世紀初頭のアメリカでも、「nature study」と銘打ったナチュラルヒストリーの草の根振興運動が民間に広まっていたとのこと。Rachel Carson の自然への関心を子供時分に掘り起こした母親 Maria Carson はこの nature study 運動に共感していたと記されています。その後、海洋生物学を目指すことになる Rachel を育んだ知的環境について本書は多くのページを割いて描いています。単に『沈黙の春』の著者というだけではない記述の奥行きが感じられます。

つい最近、本書はアメリ科学史学会から賞を受けました。

以下、章を追って内容を見ていきます。

● Chapter 1. "Wild creatures are my friends"
Rachel Louise Carson の誕生(1907年)からカレッジに入学する1925年まで。物語は Carson 家の系譜(アイルランド移民の家系)に始まり、Rachel が生まれた頃の家庭環境、そして幼少の頃から文才のあった Rachel を描く。新潮文庫に入っている『沈黙の春』の著者紹介には、Rachel は「農場主の娘」とある。しかし、本伝記を読むと、「農場主」というイメージからはほど遠い、極貧生活をしていた Carson 家が浮かび上がる。父親には定収入がなかったようで、音楽の才があった母 Maria Carson がピアノ教師をしながら Rachel の学資を稼ぎ続けたそうである。Rachel の兄と姉も私生活では決して恵まれておらず、Rachel はその劣等感から学生時代を通じて、友達づきあいがほとんどなかったとのこと。 Rachel が経済的困窮からようやく脱出できるのは、彼女自身がサイエンスライターとして自立できた、かなり後年になってからのことである。

母 Maria は、当時のアメリカで草の根流行していた「nature study」に傾倒しており、Rachel はその母の影響のもと、自宅(ペンシルヴァニアの Springdale にあった)の周囲の自然に親しんでいった。当時の nature study は児童教育の一環としての価値が強調されており、自然に学び自然を守ることの神学的意義が重要視された。「Conservation was a divine obligation; the conserva- tion movement, a religious crusade」(p.14)という知的環境は、幼い Rachel に大きな影響を及ぼした。

子供のころの Rachel は文才に長けており、10才そこそこですでに児童雑誌(St. Nicholas Magazine)の常連投稿者だった。そして、彼女自身、将来は自然を描く作家として身を立てるという希望をもっていたそうである。

● Chapter 2. "The vision splendid"
Rachel が1925年9月に入学したペンシルヴァニア女子カレッジ(PCW)は、当時のアメリカの中では指折りの女子カレッジのひとつである。Maria は Rachel が生家を離れてPCWに入ってからも、週末ごとに Rachel の入っていた寮に通いつめたそうである。

Rachel はこのPCWで、彼女の一生の進路を方向づけた生物学教師 Mary Scott Skinker と出会い、当初の目標だった文学ではなく、生物学を志すようになる。そして、Skinker の薫陶のもと海洋生物学を学ぶようになる。しかし、当時のアメリカでは女性が科学者として身を立てることは至難のことだった。女性研究者はいったん結婚すればフルタイムの職につくことができなくなった。Skinker も Rachel もともに一生未婚だった社会的理由はここにある。

Skinker が博士号をとるべくジョンズ・ホプキンズ大学に移ったのにしたがい、Rachel も同じ大学の修士課程に入り、ともにウッズ・ホール海洋生物学研究所に通うことになる。1929年のことである。Rachel の研究者人生はここに始まった。

● Chapter 3. "The decision for science"
Rachel のウッズ・ホール海洋生物学研究所(MBL)での生活ぶり(1929〜)を描く。Rachel と彼女の師 Skinker が在籍したMBLは、1888年に U.S. Fish Commission 付属の海洋生物学教育のための施設として開かれ、開設初期から女性科学者の育成に力を注いできた。これはMBLのモデルとなったナポリ海洋生物学研究所における教育制度のコピーである。

Rachel の生涯にわたる「海」への関心は、ここMBLで大きく育った。ジョンズ・ホプキンズ大学の修士課程で catfish の初期発生に関する研究をまとめた(1932年)後、Rachel は同大学の博士課程に進んだ。しかし、Carson 家の経済状態が学業のこれ以上の続行を許さず、Rachel は博士課程半ばにして大学を去り(1934年)、フルタイムのアカデミック・ポジションを探しながら、収入のため原稿の仕事をすることになる。

女性科学者の働ける場が限られていたこともあり、Rachel と彼女の師 Skinker は公務員試験を受け、政府研究機関での研究従事を目指す。1935年に U.S. Bureau of Fisheries から広報のためのラジオ番組の脚本づくりを依頼されたことを契機として、Rachel は当時の漁業不振問題と水産資源保全・環境汚染に目を向け始める。天性の文才も幸いし、Rachel はサイエンスライターとして生きる道を進み始める。

● Chapter 4. "Something to write about"
1936年になって Rachel は念願のフルタイム研究者の地位を U. S. Bureau of Fisheries に得ることができた。彼女は水産資源学の情報専門官(information specialist)として、データ解析とそれに伴う広報・出版の仕事をその後およそ20年にわたって続けることになる。

国家公務員としての仕事と並行して、Rachel は海洋生物学の執筆活動を続けるという二足のわらじを履き続ける。とりわけ、さまざまな海洋生物の生態に関する雑誌記事・新聞寄稿は、彼女の最初の著書 "Under the Sea-wind"(1941年)として結実する。しかし、この本が出版されてまもなく日本軍による真珠湾攻撃が勃発し、世情は海洋生物のナチュラルヒストリーどころではなくなる。この戦火のあおりを受けて、"Under the Sea-wind" はわずか2000部そこそこしか売れなかったとのことである。

Rachel は、科学的正確さを保ちつつ、いかにして一般読者向けに文章を書くかについて腐心し続けた。この点は実に印象的で、原稿を書くたびにそれを音読し、徹底的に推敲したそうである。彼女の著作群に見られる、詩的な文体が生まれ出るまでには不断の努力があったことがうかがえる。Nature writing の新たなスタイルを彼女はその後も模索し続ける。

もう一つ、Rachel は原稿締切が近づくとむしろ「やる気」が出るタイプだとのこと(p.100)。プレッシャーを逆手にとって推進力にできるとは、何ともうらやましい。

● Chapter 5. "Just to live by writing"
第2次世界大戦下から終戦直後(1946年)にかけての Rachel の研究活動と執筆活動を描く。戦前から「二足のわらじ」を履き続けていた Rachel は次第に、一般向けのサイエンス・ライティングの方に活動の重心を移し始める。ちょうどその頃、DDTによる野外生態系への影響を伝える情報が部局に届く。

● Chapter 6. "Return to the sea"
1946年から1948年まで。情報専門官としての Rachel の広報・出版業務にあらたな広がりがあった。『Conservation in Action』シリーズの企画を進めた Rachel は、アメリカ国内の野生動物保護区(refuge)のレポートをつくるため、実際に調査に出向く(1946〜1947年)。Rachel が関わった5冊のレボートは、その後 nature writing の手本とみなされるようになる(p.145)。

本章で関心を引くのは、Rachel の自然保護に対する視点である。著者によれば Rachel の保全生物学の基本哲学は、当時のアメリカにおける伝統(progressive conservation tradition: p.137)を継承しているが、彼女の視点は生物資源の賢明な利用ではなく、むしろ環境汚染に置かれていたと言う。

当時のアメリカの環境保護運動がどのようなものであったかは私は詳しく知らないが、Rachel のスタンスの独自性がどこにあったのかはおもしろい問題である。それにしても、Rachel は情報専門官としてずいぶん多くの情報を得ていたことが印象的である。

1947年に西海岸への調査旅行をした Rachel は、はじめて太平洋を目にする。そして、新たな海洋生物学の本の構想を練り始めた。恩師 Skinker が研究者として不遇のまま没し、最良の相談相手を失ったことは痛手だった。しかし、Rachel の仕事上の新たなパートナーはまもなく登場する。

● Chapter 7. "Such a comfort to me"
Rachel の"The Sea around Us" (1951)が出版されるまでの経緯(1948-1950)を描く。終生にわたって Rachel が対外的なネゴシエーターとして頼りとする作家 Marie Rodell が現われる。親友ではなくむしろ仕事仲間として Rodell を頼りとすることで、Rachel は執筆に集中できるようになる。Rodell によって新しい本の出版社がオクスフォード大学出版局(米国進出まもない)に決まった。

● Chapter 8. "A subject very close to my heart"
"The Sea"が出版されるまでの期間(1950-51年)における Rachel の自然保護思想と活動に焦点を当てる。とりわけ、科学技術の進展が自然に与える影響についての懸念を深める。その背景には、自然との精神的(spiritual)なつながりこそが大事だと思う彼女の詩宗があった。一方で、Rachel は情報専門官としての業務を通じて、自然保護をめぐる利害の対立がいかに根深いかを知ってもいた。この時期、彼女は研究・調査・執筆の上での人脈を張り巡らしはじめる。とくに、政府機関の中での人脈がその後 Rachel が退職した後の情報収集に大きな役割を果たすことになる。

1946年に最初に発見された Rachel の胸部腫瘍は、執筆を進めていた1950年になって病状がやや進みはじめた。摘出手術を受けたものの、それが悪性であるかどうかは医師にも判断がつかなかった。

たまたま運悪く朝鮮戦争が始まってしまったため、"The Sea"の出版は遅れに遅れた。最初の著書である"Under the Sea-wind"の販売実績が第2次世界大戦によって阻まれたときとまったく同じ状況である。戦時下での紙不足は"The Sea"の営業成績に暗い影を落とした。しかし、同書はAAASからの受賞、Book-Of-Month選定図書、Guggenheim賞など数々の栄誉に輝いた。

● Chapter 9. "Kin this be me?"
"The Sea"の成功が Rachel を「時の人」にした。同書が出版された1951年には早くもベストセラーとなり、多くの新聞・書評誌で絶賛された。有名になった Rachel には Leopold Stokowsky 指揮のNBC交響楽団による Claude Debussey作曲「海」のレコードのジャケットエッセイを依頼されたりしたとのこと。この「海」という管弦楽曲がこの時期の Rachel のテーマ音楽のようで、このほかにも Toscanini/NBCによる演奏レコードにも文章を寄せたとか。

海の biographer として認められつつあった Rachel の持論は「科学と文学は一体である」こと。科学者からはこの姿勢への批判が続いたが、彼女はむしろ両者を一体化することで nature writing の新しいスタイルを確立しつつあった。この年に彼女が受けた栄誉は数しれず。

● Chapter 10. "An Alice in wonderland character"
"The Sea"が Rachel にもたらしたはじめての経済的安定は、彼女に公務員としてのキャリアではなく、執筆生活の道を選ばせた。1952年に退職をし、新たな生活を踏み出す。一方で、家庭内では、母親の介護と Roger の養育に悩んだ。海だけが安息の場。

● Chapter 11. "Nothing lives to itself"
1953-54年のこと。メイン州の海岸に新しい家を手に入れ、家族で移りすんだ Rachel は、隣人であり、生涯にわたる無二の親友となる Dorothy Freeman とその夫 Stanley と知り合う。Freeman 夫妻は自然愛好の趣味があり、この点でも Rachel と意気があう。新居の近くの海岸散策をことのほか気に入った Rachel は Dorothy とともに散歩するという彼女にとっての幸せな日々が続く。

Dorothy とのおびただしい数の往復書簡は、本書の以下の章のベースとなる重要な資料である。

公務を退職した後の Rachel には政府の自然保護政策を批判する自由があった。特に、野生保護区における開発事業(コロラド国立公園でのダム建設計画など)に対する抗議のペンをとる機会が次第に多くなっていった。

● Chapter 12. "Between the tide lines"
Rachel Carson には、次の世代に残す自然が次第に失われつつあるという危機意識が高まっていった。本章は、3冊目の本となる"The Edge of Sea"の出版までの2年間(1955-56年)のできごとを記す。1955年10月に出版された本書は、前書と同じく、ベストセラーとしての数々の栄誉に輝くが、本書を境として Rachel の興味は「海の伝記作家」から、生物の生態・進化そして自然保護の問題へと次第に移っていく。

当時は、テレビがアメリカ社会に急速に浸透しはじめた時期であり、この新しいメディアからの誘いも相当あったようである。Rachel は私生活をさらさないという考えから、テレビ取材の依頼をことごとく断ってきたが、ある自然科学番組の企画にたずさわってからは、テレビの影響力の大きさに気づくようになる。

Rachel Carson はメディアとの付き合いかたが非常に巧みだったように私は感じる。自分の家族のこと、不治の病にかかっていること、などプライバシーに関わることはことごとく隠しつつ、自分の主張を広めるために新聞・雑誌・テレビなどをうまく利用している。人脈の張り方といい宣伝の仕方といい、彼女はただ者ではなかった。

この時期、Rachel が関心をもったことは、いかにして子供たちに自然のすばらしさを伝えるか−自然は知るのではなく、感じるものであるという主張−にあった。このもくろみは死後になって出版される本"The Sense of Wonder"に結実する。

● Chapter 13. "One must dream greatly"
主著"Silent Spring"へのドアが開きはじめる(1956-58年)。1956年は、Rachel は、家のある Southport Island にある一角("the Lost Woods")にサンクチュアリーづくりの計画を立てはじめた。このサンクチュアリーの主たる目的は海辺の保全にあった。しかし、母 Maria の容態悪化による介護の仕事と Roger の養育でかなりの時間を奪われる。結果としてサンクチュアリーづくりは頓挫することになる。

"The Lost Woods"に関する Rachel の文章は最近になって再発見され、本書の著者である Linda Lear の手で出版されている:Rachel Carson[edited by Linda Lear]『Lost Woods: The Discovered Writing of Rachel Carson』(1999年刊行,Beacon Press,ISBN:0807085472).この本もすでに翻訳されている:レイチェル・カーソン[リンダ・リア編|古草秀子訳]『失われた森:レイチェル・カーソン遺稿集』(2000年1月刊行,集英社ISBN:4087733254)。

殺虫剤散布による環境汚染のニュースが Rachel のもとに飛び込んできたのはこの頃だった。当時、アメリカ農務省が旗振りをして推進してきた fire ant 撲滅計画のもと、DDTの空中散布が広域にわたって行われていた。そして、殺虫剤の功罪をめぐって社会的な論議が高まりつつあった。核軍拡競争と農薬散布の科学技術時代の中にあって、Rachel の次の本のテーマは定位されつつあった。

● Chapter 14. "I shall rent a little, too"
1958年。Rachel は農務省の fire ant 根絶計画が推進しつつあったDDT空中散布の生態学的影響について本腰を入れて調べはじめた。殺虫剤の私有地に対する空中散布には社会的批判が強まっていたが、科学的な反論の論拠はまだまだそろっていなかった。1958年はじめにある新聞に載った投書の内容−殺虫剤散布は食物連鎖を通じて生態濃縮されるだけでなく、抵抗性を進化させるだろうという予測−を裏づけるためのデータを Rachel は収集しはじめた。Fire ant に関するやりとりをした Edward O. Wilson も Rachel の調査人脈の中に入っていた。"Silent Spring"の草稿を書きはじめたのはこの頃。

DDT空中散布が強行されたロングアイランドの Marjorie Spock が抗議行動を起こしはじめた。Rudolf Steiner の提唱するオイリュトミーをスイスで学び、みずから無農薬有機農法をこの地で実践していた Spock にとって空中散布は死活問題。Rachel は Spock と連絡を取りながら、批判記事を新聞に載せようと画策するが、製薬会社というスポンサーを失いたくない新聞社は、Rachel の申し入れをことごとく拒否する。製薬企業と Rachel との確執はこれ以後きびしさを増していくことになる。

Rachel の情報取得にかける意気込みは並々ではない。政府内の情報を科学界の動向を知るための人脈は、たとえ本人がほとんど公の場に出向かなくても、バックグラウンドでさかんに作動していた。Rachel Carson が緻密な情報戦略を練っていたことがうかがわれ、興味深い。

母 Maria が年末に死去。

● Chapter 15. "The Red Queen"
1959年。母の死によって介護から解放された Rachel はさらに広範な情報収集を行なった。殺虫剤散布への反対行動とともに、Rachel は殺虫剤に代わる「代替案」にも関心を向ける。そのひとつが不妊個体の放虫という方法だった。政府の内部情報から害虫の不妊化実験が進められていることをつきとめるが、この頃から政府側のガードが次第に固くなり、Rachel 本人に対する情報提供への規制がはじまる。しかし、Rachel はアシスタントを起用し、また個人的な人脈を通じて政府内部情報にアクセスし続けた。

Rachel のしたたかさが印象に残る。彼女は政府の対応を事前に予測し、その裏をかく戦術を次々と編み出している。

この年、Great Cranberry Scandal という農薬許認可をめぐる事件が発生した。農務省が使用を許可したある農薬の毒性試験に大きな問題があったという事件である。この事件を契機として、農薬の使用に対するアメリカ社会の目はよりいっそう厳しくなった。もちろん、Rachel はこの社会情勢を冷静に分析し、みずからのメッセージの受け皿ができはじめたことを喜んだ。

● Chapter 16. "If I live to be 90"
1960年から"Silent Spring"原稿の完成までを描く。新著に向けて走り続けていた Rachel を病魔がまたもや襲う。乳癌の再発が1960年に発見され、外科手術によりリンパ節と筋肉を含む広範囲にわたる mastectonomy を受ける。リハビリに数ヶ月を要したが、対外的には病歴を隠しつづけた。この期間中、女性アシスタントの調査協力により、のろのろと原稿進捗。

しかし、1960年暮れに、癌が他のリンパ節に転移。1961年はじめに放射線治療を受ける。

新著のタイトルは John Keats の詩を踏まえて、最終的に"Silent Spring"と決まった。

● Chapter 17. "A solemn obligation"
1962年。"Silent Spring"出版前夜。病床で完成された原稿は出版社に送られたが、内容が一般向けとしては難しすぎるのではないかとの編集サイドからのコメントを受け、綿密な宣伝企画が立てられはじめた。この企画はかなりきわどい「かけひき」を含んでいた。

まずは予想される法的措置への事前対処。この本で批判される製薬会社ならびに業界団体からの裁判所への提訴を見越して、"Silent Spring"の印税収入の一部は訴訟費用にあてられることになった。さらに、政府内部からの反撃に備えて、議会対策(ロビー活動)用にゲラ刷りを事前に配布するという作戦。さらに、一般の報道機関にもあらかじめ情報を流すという計画が立てられた。内容に関しても、政治色を薄めることにより、揚げ足を取られそうな箇所をなくす修正がなされた。

別のリンパ節への癌の転移が発見され、さらに放射線治療を受ける。しかし、もはや放射線では転移を抑制できる段階ではないことが判明。しかし、対外的にはあくまでも病気を隠す。

"Silent Spring"の出版前に The New Yorker 紙に要約を連載することになる。この頃、John F. Kennedy 大統領の招待によりホワイトハウスでの自然保護委員会に出席することに同意。出版に先立つ New Yorker への連載(7月以降)と Book-Of-Month 選定の声が高まってきたこの年の後半になって、製薬会社と政府からの反撃が始まった。

本自体がまだ出版されていないこの時期の水面下での攻防は一読に値する。DDTを製造販売していた DuPont 社は新著のゲラ刷りの提供を要求し、Velsicol 社は法的措置をちらつかせて出版に妨害をかけてきた。さらに、農薬会社の業界団体であるNACAや農務省も反論の姿勢をあらわにしてきた。

"Silent Spring"が出版されないのに、すでにこの反撃である。しかし、サリドマイド禍という大きな薬害事件に揺れていた当時のアメリカ社会は Rachel にとって追い風となった。9月27日の出版日を Rachel は自宅で静かに迎えたわけだが、その静けさは明くる年の反 Carson キャンペーンまでのつかの間しか続かなかった。

● Chapter 18. "Rumblings of an avalanche"
1963年。"Silent Spring"は基本的に社会批判の書である。しかし、製薬企業からの反論は、"Silent Spring"が1)一般書にすぎない;2)著者はプロの科学者ではない;3)女性が書いた、という3点に向けられた。企業団体NACAは反 Carson パンフレットを作るなど莫大な金をつぎ込んでの押え込み、報道機関への裏からの圧力、反論記事の投稿など、およそ考えられる反撃をすべて行なった。Rachel はこれまた前代未聞の「反論パンフレット」を配布して防戦に努めた。

癌は脊椎骨に転移。放射線治療ではもはや効果はなく、制癌剤の投与を受ける。

CBSが特集番組として Rachel の新著を取り上げようとしたとき、製薬会社がスポンサーから降りるといういざこざがあった。しかし、この番組の効果は絶大で、Rachel に対する社会からの支持が一挙に高まった。これを受けて、政府の大統領諮問機関が組織した、農薬の適正使用に関する Ribikoff 諮問委員会は Rachel の証言を求めることになった。この時点で、企業団体に対する Rachel の戦いの決着はついた。

しかし、もう一つの戦いは続行していた。癌の骨転移は制癌剤治療にもかかわらず、進行し続けた。胸の痛みと腕の麻痺。

Ribikoff 委員会での証言の中で、Rachel は持論を展開するとともに、市民組織の必要性を訴えた。

● Chapter 19. "I shall remember the monarchs"
1963年後半から1964年の死まで。癌は骨盤に転移し、歩行が困難となる。しかし、車椅子に頼りながらも、Rachel が末期癌であることはほとんどの人間が知らなかったとか。この時期にもこなし続けた数々の講演を通じて、反 Carson キャンペーンは事実上なくなり、「最後の戦い」だけが残った。

頚椎骨への転移、脊椎骨の圧迫崩壊、脳への転移(味覚と嗅覚の喪失)、肝臓への転移。主治医をして「生きているのが奇跡である」と言わしめた病状を経て、最終的に脳下垂体切除という大手術の後、1964年04月14日午後、Rachel Louise Carson は心不全により逝去。享年56歳。遺灰は親友 Dorothy Freeman の手によって、Rachel のお気に入りだったメイン州の Newagen の海岸に撒かれた。

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本書を通じて初めて知った Rachel Carson の病跡(pathography)もさることながら、"Silent Spring"前後の対企業・対農務省の攻防戦の詳細が私にとってはもっとも印象的でした。

三中信宏(27 January 2000 / 6 May 2008 改訂)