『ムネモシュネ・アトラス』書評

アビ・ヴァールブルク[伊藤博明・加藤哲弘・田中純(訳・解説)]
(2012年3月30日刊行,ありな書房[ヴァールブルク著作集・別巻1],東京,765 pp., 本体価格24,000円, ISBN:9784756612229版元ドットコム

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イメージの迷宮がもつ多次元性を読む

 

このたび出版された『ムネモシュネ・アトラス』は八百ページ近くある電話帳のような大冊だ.美術史家アビ・ヴァールブルク(1866〜1929)の遺作となった本書は「本」というよりもむしろ「作品」とみなすべきだろう.この『アトラス』を構成する計八十枚を越える「パネル」にはそれぞれ複数枚のモノクロ写真が配置され,全体として古代バビロニアの彫刻から著者晩年の20世紀前半の社会現象にいたるまでをカバーする千枚を越える“イメージ”の迷宮をかたちづくっている.

 

本書は,確かに途方もない図像集であるが,日本語解説者のおかげで各パネルの図版ごとに詳細な説明文と参考図版が付されているので,読者は地図もないまま茫漠たる図像の荒野をあてもなく放浪せずにすむかもしれない.パネルを最初から順番に読み進めるもよし,テーマごとに横断的に吟味するもまたよし.絵画や彫刻などに見られる図像の“イメージ”としての意味・寓意・解釈をさらにもう一歩進めれば,人間の精神構造にまで踏み込んだ知見が得られるにちがいない.神話と古代世界観,占星術や魔術,中世写本と芸術作品,ムッソリーニローマ教皇など,パネルごとにあたかもテレビのチャンネルを変えるように異なる図像世界が広がっているように見える.

 

しかし,この『アトラス』は秩序のない“イメージ”のごった煮ではない.個々のパネルを構成する“イメージ”の集合は二次元的な平面配置がなされている.そしてパネル間の順序にも意味があると考えるならば,『アトラス』全体としてはさらにもう一次元増えることになる.各パネルを構成するそれぞれのモノクロ写真をパーツとするとき,この“イメージ”の迷宮はひとつの全体としてある多次元空間を形成することになる.この全体はいったい何を意味しているのか.何よりも,著者がこの作品を通してそもそも何を目指そうとしていたのか.

 

『アトラス』の迷宮をさんざんさまよった後に,これらの根本的問題について考えてみるのは興味深い.もちろん,晩年のヴァールブルクが統合失調症を抱えつつ『アトラス』に取り組み続けた状況を考えるならば,その俯瞰的解読が容易にできるとはとうてい考えられない.田中純が巻末のエッセイで論じているように,写真〜パネル〜アトラスという迷宮のもつ重層的構造を読み解くためには,ネットワーク的な考察や多変量データ解析のような試みによる潜在構造の抽出が必要なのかもしれない.まさに,現代版「記憶術」の技法である.

 

ヴァールブルクは『アトラス』の図像解釈を通じて,古代から現代にいたるまで人間の中に連綿と記憶され存続した感情表現や身振り言語を「情念定型」という概念のもとに解明しようとした.彼の「序論」には「記憶はムネーメ[生体に残存する記憶痕跡]のかたちで,失われることのない遺産を伝える」(p. 634)と記されている.ある世代や時代に刻まれ獲得された記憶が後世に遺伝すると主張した生物学者リヒアルト・ゼーモンの学説(「ムネーメ理論」)をヴァールブルクは自らの情念定型説を支えるよりどころとして採用した.

 

ゼーモンは19世紀ドイツにダーウィン理論を輸入した進化学者エルンスト・ヘッケルの指導をイエナ大学で受けた弟子だった.世紀末の「ダーウィニズムの黄昏」を経験したゼーモンは,ヘッケルの一元論哲学に賛同しつつも,当時勢力を得つつあったネオ・ラマルキズムに与する獲得記憶の遺伝を説明する学説としてムネーメ理論を提唱した.現在では歴史の隅に忘れ去られているが,二十世紀初頭にメンデル遺伝学が再発見されて間もなくの混沌とした学界にあって,ゼーモンの記憶遺伝子(「ムネーメ」)の理論は大きな国際的論争を引き起こしたという.

 

カール・グスタフユングの『赤の書』を埋め尽くす幻視的な図像の数々が人間の心のなかにある超越的な「原型」を描き出そうとしたのとは対極的に,ヴァールブルクの『ムネモシュネ・アトラス』は人間の現実の歴史の中で実体として存続してきた「情念定型」を追い求めた.その情念定型がひとつのムネーメとして実在し時代を越えて存続するという信念が本書の“イメージ”迷宮を支えてきたのであるならば,ヴァールブルクもまた同時代の進化学や遺伝学の動向と無縁ではいられなかったということだ.

 

三中信宏(2012年7月29日加筆)



本書評は,図書新聞2012年6月16日号(通号3066)に掲載された書評記事:三中信宏「イメージの迷宮がもつ多次元性を読む:歴史の中で実体として存続してきた「情念定型」を追求」を改訂したものである.