『科学の地理学:場所が問題になるとき』

デイヴィッド・リヴィングストン[梶雅範・山田俊弘訳]
(2014年6月16日刊行,法政大学出版局,東京,xii+298 pp., 本体価格3,800円, ISBN:9784588371202目次版元ページ

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グローバル科学の背後にゲニウス・ロキ(地霊)が忍び寄る



繰り返し刷り込まれてきた「科学はグローバルである」というスローガンはすでに誰にも反論できない雰囲気を帯びている.確かに,科学研究によって発見された “客観的” な事実や “普遍的” な成果は,特定の社会や文化や国境に限定されることなく,世界中のどこでも通用するだろう.その意味で科学とその成果が「グローバル」な普遍的価値をもつという表現にまちがいはないだろう.



この「科学はグローバルである」という合言葉に抗して,本書の著者はこう述べる:「私の関心は,実験がなされる現場,知識が生成される場所,調査がなされる土地が科学にとってどれほどの意義があるのか決定しようと努めることにある」(pp. 5-6).著者の基本姿勢は,グローバルな科学もまたローカルな条件によって制約されているという観点に立つ.本書のタイトルでもある「科学の地理学」とは,科学に制約を及ぼすこの「ローカルな条件」とは何かの解明を目指している.



本書を読む上でのキーワードは「科学の場所性」である.著者は,科学研究の成果がもつ普遍性を認めた上で,なお科学的知識の生産と消費にとってローカルな「場所性」はきわめて重要な要因であると主張する:「科学が普遍性の装いを享受し,地球の表面を驚くべき効率で伝達されるからといって,科学のもつ局所性が払拭されるわけではない」(p. 19).



科学研究はいずこの地域でなされるか.科学的知識はどのような場所でつくられ消費されるのか.著者は,科学におけるこれらの「場所性」の問題に関して,これまでの科学論では顧みられてこなかった「科学の地理学」という一般的な枠組みの中で議論しようとする.第1章「科学の地理学はあるか」では,科学の地理学における3つのテーマ「場所・地域・流通」が提示される.続く章ではこの順番で科学の地理学が語られる.



第2章「科学の場所」では,科学的知識が生産されるいくつかの「場所」に焦点を当てる.本章で事例として挙げられているのは,実験室・博物館・野外研究・庭園(植物園と動物園を含む)・病院・身体などである.科学における「実験室」のもつ特有の性格について著者はこう書いている:「知識がその生まれた地点から公的な場にもたらされるにあたって,知識として定着させるためにしばしばドラマ化される必要があった.実験の場は,また自然がさまざまなステージにかけられるので劇場的といえた」(p. 38).また,「博物館」については,「博物館はつねに解釈実践の場であり,そこで個々の品を空間配置することで,そもそも自然世界を再構成する場なのだ」(pp. 41-43)と述べ,博物館の場所性が長く論議の的であり,時代を通じて変遷を遂げてきた経緯に言及する.



フィールドでの野外研究について著者は興味深い指摘をしている.「フィールドは開かれた場所であったから,建物内にある実験室や博物館ほど簡単に定義づけ,境界を引き,秩序づけられるというわけにはいかなかった」(pp. 55-56)という著者は,野外研究と室内研究とは「認識論的な様式」(p. 54)の点でちがいがあったとみる.そして,野外研究の場においては,「専門家とアマチュアのあいだの境界が,他所よりもフィールドにおいていっそう不明確である一方,しばしば「アマチュアによる知識」が,有資格の専門家によって保証されたときだけに,本物の科学として受け入れられてきたことも事実である」(p. 56)ならびに「フィールド科学では,「徒弟制」とでもいうべきものが不可欠なのである」(p. 60)と書いている.



著者は,これら以外にも科学史のさまざまな実例を挙げながら,科学的知識が生産される場所にはそれぞれ固有の文化と様式があり,科学的知識の生産に対して実質的な影響を及ぼしたと結論する.



続く第3章「科学の地域」はとても刺激的な内容だ.著者は,科学が実際に行われているローカルな「場所性」を比喩的に「ゲニウス・ロキ(土地柄)」と呼ぶ(p. 113):「こうした物言いは,少しばかり神秘的すぎるかもしれないが,考え方の伝統や知的な交流の経路,言語系統,教育習慣,文化伝達の慣例,宗教的信条の形態,諸々のその他の人間意識の要素が地域のアイデンティティをつくるのに決定的に作用していることは間違いない」(p. 114).そして,これらのローカルな要因の全体が「特定の地域の環境下での科学の営みや研究実践者の知的な主張に多大な影響を与えてきた」(p. 114)と指摘し,科学の場所性が表層的にはとどまらない実質的な効果をもつとみなす.



この「場所性」の論議は,科学的知識の生産だけにとどまらず,その消費や流通にも広がっていく.第4章「科学の流通」では,あるローカルな場所で生産された科学的知識が,どのような経路と変遷をたどって,別のローカルな場所に到達するかを論じる.19世紀のロバート・チェンバースの手になる『創造の自然史の痕跡』(1844)やチャールズ・ダーウィンの著書『種の起源』(1859)が,国内外の地域によって受容のされ方がまったく異なっていたという科学史の事例を幅広く渉猟し,著者は場所性は確かに科学の営みを広く深く制約してきたことがわかると主張する.



全体を総括する最後の第5章では,グローバルな統一体としての科学が存在するというこれまでの科学観それ自体に対して科学の地理学からの疑念を呈している.科学は時間的にも空間的にももっと複雑な実体ではないかという見解だ.これまでの科学史が「時間軸」にもっぱら着目してきたのに対し,著者は科学の地理学が提示する「空間軸」にもっと目を向けるべきだと述べる.



本書において著者が示す一つの重要な論点は,「グローバルな科学」という観念が「ローカルな場所性」とどのように関連づけられるかという点だ.著者は,科学的成果をめぐる悪しき相対主義は論外としつつ,ローカルに生み出された局所的知識がグローバルに通用する普遍的知識となる道はけっして平坦ではなく,努力の末に初めて獲得できると強調する:「科学における国際主義は,現に存在しているものを見る限りでは,科学に固有の本質から必然的に出てきたものではなく,ある種の社会的な達成物と考えるべきだろう」(p. 116)すなわち「それは,努力して達成されなければならなかったものなのだ」(p. 116)と述べる.



では,どのような「努力」を払えば,ローカルな科学的知識はグローバル性を「社会的に達成」できるのだろうか.セオドア・M・ポーター[藤垣裕子訳]『数値と客観性:科学と社会における信頼の獲得』(2013年9月,みすず書房,東京)で詳述されている「数値化」による知識の客観化・普遍化はそのような「努力」のひとつなのかもしれない.



現代のように,たとえインターネットが普及して世界中が瞬時につながる世の中になったとしても,科学が実際に行われる場所と地域はローカルでしかありえない.特定の科学研究の分野であっても,世界を見わたせば科学地理学的なちがいが確かにある状況を実際に目にするとき,著者の言うローカルな「ゲニウス・ロキ」の神秘的な力は,グローバルな現代科学にとって無視することができないだろう.もちろん,本書を通じて,極東に位置する日本における科学の「土地柄」について考えることも重要だろう.



本書の巻末には註とともに詳細な文献解題と索引が付けられていて参考になる.広範な話題を含む翻訳はさぞかしたいへんだったのではないかと推察されるが,訳文はとても読みやすい.一箇所だけ校正ミスと思しき箇所があったことを最後に付記しておく:「箱舟を復元によって」(p. 67)→「箱舟の復元によって」.



三中信宏(2014年8月13日)