『何かが後をついてくる:妖怪と身体感覚』感想

伊藤龍平
(2018年8月3日刊行,青弓社,東京, 255 pp., 本体価格2,000円, ISBN:9784787220769目次版元ページ

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共有された身体感覚がネーミングとヴィジュアル化を促す

日々の生活の中でふと感じる “違和感” や “ひっかかり” は,ほとんどの場合,その場その時に限定される唯一的な事象(あるいは認知現象)だろう.しかし,喉元を通り過ぎてしまえばきれいに忘れ去られてしまうことが多いのは,それらが自分ひとりの個人的なできごとであって,他者と共有されているわけでもないと自分が勝手に思い込んでいるからかもしれない.一方,ある人が遭遇したそれらのできごとや認知は,実は他人にも共有されている可能性は少なからずあるだろう.ただし,その共有性が私的ではなく公的なコミュニティのレベルで認識されているかどうかはわからない.もしも公的に認知された現象ならば,そのうち自然発生的に命名されて固有の名前をもつことになるだろう.いったん名前を有したならば,さまざまな想像力を駆使してヴィジュアルな姿形として可視化される道が拓けるにちがいない.

 

著者は本書の序の中で,誰もがもっている “身体感覚” から “妖怪感覚” が派生してくると主張する:

「私は「妖怪」とは,身体感覚の違和感のメタファーだと思っている.その違和感が個人を超えて人々の中で共有されたとき,「妖怪」として認知される.少なくとも,民間伝承の妖怪たちの多くは,そうして生まれたのだろう」(序, p. 14)

 

「夜道を歩いているときに背後に違和感を覚えたことがある人は多いだろうが,しかし,それは怪しいという感覚だけで——仮に「妖怪感覚」と呼んでおく——「妖怪」とはいえない.その感覚が広く共有されて,そこに「ビシャガツク」といった名前がつけられたとき,「妖怪感覚」は「妖怪」になる.重要なのは「共感」と「名づけ」である」(序, p. 14)

個人の身体感覚としての “妖怪感覚” はごく個人的な体験であり,そのかぎりではまったく正体不明の怪事としか言いようがない.しかし,その “妖怪感覚” が共同体レベルで共有されると,それを指し示す「名前」が付けられることになる,つまり,公認されることになる.これらいくつかの段階を経たあとで,はじめて “ヴィジュアル化” という次の段階を迎えることができる.本書の要点は,妖怪として公的に命名され視覚的に描かれるまでの前段階に関心を向けた点にある.

 

続く第1章では,東北地方の「ザシキワラシ」や学校の怪談としての「トイレの花子さん」,そして第2章では台湾の妖怪「ウトゥフ」を例に挙げる.第3章では吉田兼好徒然草』に登場する「しろうるり」なる正体不明のモノが後世どのように “妖怪化” していったかの経緯がたどられる.たとえ,名前がつけられたとしても,その “ヴィジュアル化” はまた別問題であって,鳥山石燕水木しげるによる視覚化はさまざまな変異を伴う系譜をもつ.さらに,本書後半では台湾の妖怪事情に焦点を絞り,「モシナ」のような台湾在来の妖怪だけでなく,日本から伝わった妖怪がどのように変容しつつ受容されていったかが論じられる.

 

日本と台湾にまたがる妖怪の民俗学をカバーした本書の各章には詳細な後注が付けられていて資料としても有用である.

 

それにしても,暗闇の中で湧き上がるさまざまな感覚(視覚以外の聴覚や触覚を含めて)をどのように説明すればわれわれは納得できるのか.ワタクシが十年前に書いた『分類思考の世界』の第2章「「種」よ,人の望みの喜びよ」の第2節「あるものはある,ないものもある」では,鳥山石燕の描く妖怪〈うわん〉を例に,「ある」と「ない」の境目が生み出す不安と恐怖,そして命名されることによる安心について考察した.

「「ない」と断言できれば、私たちはもちろん安心できる。逆に、「ある」となれば、恐怖感は去らないのだが、その確かな怖さに対して私たちは裏返しの安心感を抱くことができる。やっかいなのは、その判断がつかないときだ。あるなしの境目のぼやけ方がさらなる怖さを煽ってくる」(p. 51)

 

「声のみ伝わる妖怪〈うわん〉は私たちの不安の産物だ。しかし、たとえ姿形が曖昧模糊としていても、名前さえわかればとりあえずは一件落着だ。正しい名前で呼ぶことの大切さは、サイエンスとしての分類学以前から伝承されてきた東アジア固有の文化である」(p. 52)

 

「いったん名が付いてしまえば、姿形はあとでどうにでもなる。『画図百鬼夜行』の〈うわん〉は禿頭の坊主のような姿体をしている。この図を見た者は名がつけられ姿が描かれていることに対して安心するわけである。名もなきものは最初から存在していない。その逆に、名さえあれば「ない」ものも「ある」ことになる」(p. 52)

上の引用文では,ネーミングやヴィジュアルに先立つ存在論的な心もとなさをワタクシは指摘した.『何かが後をついてくる』の著者もまた同様の関心をもって議論を展開しているように感じられた.

 

「個人的な身体感覚→共有された身体感覚→命名→可視化」というコースが一般性をもつとしたら,ワタクシが日々口にしている「┣┣" 」とか「フシアワセ」とか「〆切様」もそろそろヴィジュアルな可視化をされてもいい段階かもしれないな.

 

三中信宏(2018年10月5日)