上村忠男
(2009年3月10日刊行,平凡社[平凡社ライブラリー665],482 pp., 本体価格1,800円, ISBN:9784582766653 → 目次|版元ページ)
今から二十年前に出版された初版:上村忠男『クリオの手鏡:二十世紀イタリアの思想家たち』(1989年2月刊行,平凡社[平凡社選書], ISBN:4582841287)の増補改訂版.初版は見ていないが大幅に加筆・増補されているとのこと.細かい脚注がたくさんついていて,揺れる車中で読むのは目にそうとう悪いが,まさにグッド・タイミングな本で,先日の生物地理学会【種】シンポジウムでのトークにそのまま使えるいくつかの素材に幸運にも遭遇できた.まずは,講演のために,思想家ベネデット・クローチェと歴史家カルロ・ギンズブルグの章をまずはじめに読む.
スライドに引用したくだりをメモしておこう.まずはじめに,「分類」という行為に関するベネデット・クローチェの発言(1894年)から:
たとえば,動物学はこの猫とかあの馬というように個々の事実を扱うのではなく,ネコおよびウマという〔類としての〕事実を扱うのである.それは動物の国のもろもろの個体を種と類に系統化することによって,事物の分類とその本性の探究のための端緒を与えるのであって,これを他の諸科学はさらに進めて,動物の諸種から動物なるものの概念にまで,そしてこれから生物といういっそう一般的な概念にまでさかのぼっていく.(pp. 80-81)
次に,断片的データからの「アブダクション」に関するカルロ・ギンズブルグの積極的評価について(1979年):
何千年ものあいだ,人間は猟師であった.数限りなく追跡を繰り返すなかで,かれは姿の見えない獲物の形姿と動きを,泥土に残された足跡,折れた木の枝,糞の玉,一房の頭の毛,引っかかって落ちた羽根,消えずに漂っている臭いなどから復元するすべを習得してきた.この〔狩猟型の〕知を特色づけているのは,一見したところでは取るに足りないように見える実地の経験に基づくデータから,直接には経験することのできないひとつの総体的な現実にまでさかのぼっていくことのできる能力である.(pp. 263-264)
物語という観念自体,猟師たちの社会のなかで,痕跡の解読の経験をつうじて初めて生まれたのであった.今日でもなお狩猟型解読の言語が立脚している比喩 —— 部分と全体,結果と原因 —— がいずれも換喩〔メトニミー〕という散文軸にまとめることのできるものばかりであって,隠喩〔メタファー〕を厳しく排斥しているという事実は,この仮説を裏付けてくれるのではなかろうか.猟師こそは「ストーリーを物語る」ことをした最初の者であったにちがいないのである.(p. 264)
—— 出会いの幸運を喜ぶべし.アブダクションによる推論を「メトニミー」と言ってくれたのはとてもありがたい.