「研究者コミュニティの「限界集落」化について」

先日の所内領域会議でも話題に出たことだが,来たるべき(と思うけど)独法再編にともなって,農水省系の独法研究所がどういうふうになるのかの具体的なプランは「何もない」のが現状らしい.「上」の方でミーティングはやっているようだが.シミュレーションなしの夢物語だけ.過去に繰り返された組織改編でも似たような状況だったので,下々は誰もが「ああ,またか……」という諦観の空気がすでに流れている.下の方でいろいろ意見を出したり,案を作ったりしても,天上から降ってくる鶴の一声ですべてが決まるということ.この件に関してはあまり深くコミットしてもしかたがないという智慧を誰もが身に着けてしまった.

ただ,身の回りの研究環境の着実な変化(研究資金・物的資源・マンパワーの劣化)を考えたとき,かなり切実に研究者コミュニティーの「限界集落化」をひしひしと感じ始めている.国立大学もそうだろうが,独法研究所も研究員の平均年齢は着実に上がっている.若手ポストがほぼすべて「任期付き」なのはどこもそうなのだろう.問題は年長世代の任期無し研究員が担うべき仕事がうまくまわらなくなっているという意味での「限界集落化」だ.単純なことで,10人の研究員が8人になることと,もともと3人が1人に減らされるのでは,たとえ減り分が等しくても影響は後者の方がはるかに深刻.というか,何もできなくなるって.

限界集落の発生は研究機関としての規模の大きさとはまったく関係ない.たとえ何千人もの研究者を抱える機関であっても,ローカルには「限界集落」はいつでも発生する可能性がある.研究者の「限界集落」の中でどのようにサバイバルしていくか.とりわけ,マイナーな研究分野は「限界集落化」しやすい.他人事ではない.学問分野や研究機関によってちがいはあるだろうが,「研究してデータ取って論文書いて」という研究者としてのコアを取り巻く周辺的な仕事が年々増えてくる.

いつだったか,研究所の所内会議で,公費購入雑誌の今年度削減案についての報告があった(毎年減らされているので).事前に職員にはアンケート調査(という名のガス抜き)があるので激昂するようなことではもはやない.それでも研究上「ないと困る」ジャーナルが切られるのは切実.ずっと続いている購入ジャーナルの削減傾向は今後も変わらないだろう.その先に何があるか.公費購入雑誌はそのうちゼロになり,必要な論文は研究員個人が個別に公費で「物品購入」するようになるのではないかと領域長は示唆した.非現実的とは言い切れないのがいやはやなんとも.

研究所の図書室が公費購入しているジャーナルだけの問題ではない.ワタクシの研究室でも公費購入雑誌が数誌あるが,年々上がっていく法人価格での年間購読料は研究交付金の財政圧迫の大きな要因となってきている.そろそろやめようかとも思っている.しかし,ワタクシの研究室で購入しなくなると,オンライン雑誌のバンドル契約でとても困ることになると,図書室から頼み込まれて購読し続けているジャーナルがあるのも事実.しかし,そろそろ支えきれなくなってきた.

お金のことだけ言えば,ジャーナルの法人契約ではなく個人契約にすれば,購読料ははるかに安くなる.これは学会誌でも同じこと.極端なことをいえば,研究室単位では公費購入を全部やめて,研究者が私費での個人購入をした方が大局的には「安上がり」なこともある.ただ,学術誌(専門書もそうだが)について,公費購入から私費購入への移行をお金の点からのみ判断して突っ走ってもいいのかという問題は残る.紙本から電子本へと軸足を移しつつある研究所の図書室が公費購入から手を引いたら,その存在意義はまったくなくなるだろう.公的機関のライブラリーは「図書」というそれぞれ独自の継承資産が存在意義という価値の大きな部分を占めるとワタクシは考える.それをいったん手放したら,端的に言えば「なくてもいいじゃん」ということになる.

ワタクシの場合は,かなり前から,研究上必要なジャーナルと書籍はすべて私費購入しているので,研究機関のライブラリーへの依存度は相対的に低いかもしれない.それでも,図書室が年々やせ細っていくのを見るのは忍びない.

以前,研究上の図書資料の行く末をめぐる問題点について,「研究上のライブラリーはいかにして生き延びられるか?」という文を書いた.しかし,マイナーな非典型研究分野(→ Cf: Togetter -「典型的研究分野」と「非典型的研究分野」)が組織の中で「限界集落化」という新たな事態を迎えるとき,単に図書資源にとどまらず,もっと広範かつ根本的なリスクが高まりつつあることを感じる.

学問領域は「生き物」なので,栄枯盛衰があるのは世の必定であることはわかっているのだが,昨今の「選択と集中」という強力な淘汰圧の帰結が見もの.研究の内容とか意義とは別の次元で,研究者コミュニティーの「限界集落」がまるごと “悲運多数死(decimation)” に追い込まれる結末が危惧される.それは研究者の責任ではけっしてないだろう.かぎられた研究リソースをめぐる生々しいパワーポリティクスを前にして,残された道は潔く退場するかどこかに立ち去るしかないのかもしれない.

[→ 「研究者コミュニティの「限界集落」化について(続)」へ.]