「研究者コミュニティの「限界集落」化について(続)」

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大学や研究機関に余裕があった時代は,研究環境にも「フトコロの深さ」や「大きなのりしろ」があったが,今ではそういう “遊び” の部分がどんどん削られている.すべて白日のもとにさらされて,炎天下なのに逃げ場がない状態と言うべきか.

並行して,学会にも「限界集落化」の大波は押し寄せる.小さくても大きくても,学会であるかぎり,中心的に動く誰かがその負担を担わざるを得ないので,高齢化による「限界集落」の縁にある学会ほどこれから苦しくなっていくだろう.昨年暮れに「解散」した財団法人日蘭学会のような事例もこれからはきっと出てくるにちがいない.

増えすぎた学会を減らすことは,いまの学会関係者ならば誰もが一度は考えることである.複数の関連学会による合同年次大会はそういう必要性から実施されているのだろう.さらに進めて,学会員が大きく重複している学会群はいっそひとつにすればいい.学会員にとっては学会費の負担軽減と大会の日程調整がラクになるだろう.もちろん,学会を支えている層にとっての根本的な負担軽減になることは言うまでもない.

新しい学会が生まれるときは鳴り物入りで宣伝されるが,学会を立ち上げた創始者(発起人)たち自身は,「生き物」としての学会が老化したり死ぬことは何一つ想定してはいないはず.その「負の遺産」を継承するのは次世代の学会中枢にほかならない.学会の実務的な仕事は片手間にはできないので,学会の合併はいい傾向だ.ただし,学会長ポストをどうするかという問題が実はもっともやっかいな案件だったりする.いったん分かれた学会を統合するにあたっては,学会を分けた当事者たちがこの世からいなくなるか,リタイアしたあとにイッキに進める必要があるかもしれない.

—— 研究者は雲や霞を喰う不老不死の仙人ではない.等身大の科学者は生身の人間である.