『生物学の歴史』

チャールズ・シンガー著[西村顯治訳]

(1999年10月1日刊行,時空出版,東京,本体価格15,000円,xii+513pp., ISBN:4-88267-026-7

【書評】※Copyright 2000, 2013 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved



私が大学院の博士課程1年の夏休みに読み上げたのは、進化学者エルンスト・マイヤーの千ページにも及ぶ大著『生物学思想の発展』(Ernst Mayr 1982. The Growth of Biological Thought: Diversity, Evolution, and Inheritance. Harvard University Press, Cambridge, xiv+974 pp., ISBN:0-674-36445-7版元ページ)だった。京都の暑い夏の昼下がりに、当時新刊だったこの厚い生物学史書のページを繰っていたことは今でも強く記憶に残っている。おそらく農学・生物学系の現役の研究者が生物学史にさほど関心をふりむけない状況は、残念なことに今でもそれほど改善されていないように私には感じられる。しかし、みずからが日々関わっている学問分野のたどってきた歴史になぜ興味をもたずにいられるのだろうか。現在を知りたいからこそ、われわれは過去を振り返るのである。



今回翻訳されたシンガーの本を貫く基本姿勢は、何よりもまず緒言を読めば明らかである。科学が専門化していく時代の流れの中で、「歴史的方法を導入せずに科学を概観する」という見解は「愚か」であると彼は言いきる。卓見である。本書の原書がいまから約半世紀も前に出版されているにもかかわらず、生物学史の古典としての現代的価値をまったく失っていない理由はまさにこの高い見識にある。



本書の構成は下記の通りである:第1部「生物学のむかし」;第2部「近代生物学の史的基盤」;第3部「近代生物学の諸問題」。全体の構成は時代的に区分されており、第1部では古代ギリシャから17世紀まで(アリストテレス、古代医学、ルネサンス期のナチュラリスト群像)、第2部は17世紀から19世紀初頭まで(近代経験主義の勃興、リンネ分類学、比較解剖学、探検生物学と進化学)、そして第3部は19世紀以降を描く(細胞学、生理学、発生学、性、メンデル遺伝学)。内容としては20世紀はじめまでで記述を終える。



教養人シンガーらしく、記述の端々に科学史的エピソードがはさみ込まれる。それらをながめるだけでもずいぶんと勉強になる。特筆すべき点は図版の豊富さだろう。上記マイヤーの本を含め、多くの生物学通史書には図版が少ないのがつねである。しかし、本書には原典からの図版が数多く挿入されており、資料としての活用が期待できる。



本書が通史としてもつ欠点はもちろんいくつも指摘できる。たとえば、ダーウィン進化学に対するシンガーの否定的な記述は、おそらくは本書の原書第1版が出された頃(1931年)の反ダーウィン的思潮が影響しているのだろう。未発表資料に基づいて書かれた最近の詳細な伝記(A・デズモンド,J・ムーア[渡辺政隆訳]1999『ダーウィン:世界を変えたナチュラリストの生涯(I, II)』1999年9月10日刊行,工作舎,東京,上巻 1-560 pp./下巻 561-1048 pp.,本体価格18,000円,ISBN:4-87502-316-2 [set] → 版元ページ)を読めば、シンガーの記述が必ずしも正しいわけではないことをわれわれは知っている。そもそも、20世紀に大きく発展した生物学に関する言及がないことは、本書の現代的価値を減じている。また、体裁の上では、事項索引がないのはきわめて不便だし、文章校正上のミスが方々に散見されるのも気になる。



しかし、最初に述べたように、これらの欠点や注文は本訳書の全体的な意義を損なうものではない。価格から考えて、個人が気軽に購入できる本でないことは確かである。しかし、いまの日本に類書がないことを考えれば、思い切って手に入れておくべき本である。



三中信宏(2000年2月1日|2013年10月4日改訂)

本書評は,雑誌『遺伝』, 54(6): 75(2000年5月,裳華房)に掲載されたものの改訂である.