『生態学者・伊藤嘉昭伝 ― もっとも基礎的なことがもっとも役に立つ』

辻和希(編)
(2017年3月25日刊行,海游舎,東京, x+421 pp., 本体価格4,600円, ISBN:9784905930105目次版元ページ

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“樹” としての伊藤嘉昭

二段組400ページ超という厚さはさすがに読みでがあった.全体の構成は年代順に並べられていて,次のとおりである:「第一部 農研時代」「第二部 沖縄県時代」「第三部 名古屋以降」「第四部 著作活動」「第五部 比較生態学とその周辺」「第六部 ハチ研究」「第七部 伊藤さんの思想」.


伊藤嘉昭という研究者はワタクシにとっては何の関わりもない人物だったので,生態学会大会や動物行動学会大会などですれちがうことはあっても,個人的な会話を交わしたことはまったく記憶にない.しかし,本書を読むと,異なる大きさの “嘉昭数(Kasho number)” をもつさまざまな世代の総計55人がいろいろな思い出話を語っている.寄稿者によって文書の長短はちがっているが,全体を通読すると,ジグソーパズルのように数多くのピースがはめ込まれて,しだいに大きな “図” が復元されていく気がした.伊藤嘉昭とは無縁のワタクシでさえそう感じるのだから,もっと “嘉昭数” が小さくもっと “近縁” な読者ならばさらに強くそう感じることだろう.


それでも,本書だけからはこのパズルの “欠けたピース” は埋まらない.たとえば,伊藤嘉昭本人によるふたつの自伝:伊藤嘉昭『生態学徒の農学遍歴』(1975年12月25日刊行,蒼樹書房,東京, 228 pp.)ならびに伊藤嘉昭『楽しき挑戦:型破り生態学50年』(2003年3月30日刊行,海游舎,東京, xviii+378 pp., ISBN:4905930367書評)を情報源としてこの “隙間” をある程度は埋めることができるだろう.


あるいは,もっとルーツをさかのぼって,伊藤嘉昭夫妻がかつて在職した旧・農林省農業技術研究所(東京都北区西ケ原)の歴史を綴った:農業技術研究所80年史編さん委員会(編)『農業技術研究所八十年史』(1974年12月13日刊行,農業技術研究所,東京, XVIII + 724 pp. → CiNii Books)にも手がかりがある.さらにいえば,未公刊の資料:岩田俊一(責任編集)・昆虫科西ヶ原OB会有志『農技研昆虫科 ― 西ヶ原三十年の記憶』(2013年4月発行,非売品)にも,伊藤は「メーデー事件被告に研究を許し続けた「農研・昆虫科」」という回顧記事を寄稿している.


文字として残されたこれらのソースと並んで,本書にまとめられた関係者の証言はかけがえのない重要性をもつだろう.編者の辻和希はまえがきのなかでこう述べている:

「戦後の日本の生態学と昆虫学は潮流が幾度も変わる激動を経験した.それは,ときに思想や政治とも絡みながら,日本社会そのものの変化と複雑に協奏している.数量化された近代科学としての個体群生態学,非殺虫剤依存の害虫根絶防除技術,社会生物学,これらの導入と普及において伊藤嘉昭は日本における最大のリーダーであった.したがって,伊藤の個人史は戦後日本のこれら科学領域の歴史を照らす鏡でもある.すなわち本書を読むことで,戦後の日本の生態学と昆虫学の歴史社会学の一断面,それも重要な一断面を,概観できると編者は確信している」(pp. iv-v)

“縦糸” が全部で55本もあればこんがらがってしまいかねないのだが,幸いなことに「第七部:伊藤さんの思想」には全体を束ねる “横糸” として鳥瞰図の役割を果たしている.とくに,岸由二「嘉昭さん応答せよ」(pp. 342-358)は日本の戦後生態学がたどってきた道を振り返る上で必読.文中の人名は伏せ字にしなくてもよかったのではとワタクシは思うが.越中の殿は「岸クンが書かなければどうしようもないだろう」と先月言っていた.確かにそうなんだろう.続く山根正気「伊藤嘉昭さんの人間観」(pp. 359-370)を読むと伊藤嘉昭という人の内面を垣間見ることができる.


本書には今でなければ集めることができない “証言” の数々が集約されており,編者の意図どおり今後もその価値を喪わないだろう.あえて欲を言えば,“縦糸” を束ねるもっと強力な “横糸” があった方が全体としてのまとまり考えるならば望ましかったのではないだろうか.たとえば,個体群生態学史に名を残す George Evelyn Hutchinson の足跡をたどった:Yvette H. Edmundson 1971. Some components of the Hutchinson legend. Limnology and Oceanography, 16(2): 157-163 (pdf: open access) には,Hutchinson と彼の弟子たちとの師弟関係を図示するみごとな「師弟系統樹」― the Hutchinson tree ― が描かれている.「伊藤嘉昭史」もまた科学史的にたどるならばパズルの欠損はより少なくなり,Hutchinson 樹と同様の “可視化” がきっとできるにちがいない.それはワタクシのように “嘉昭数” がかぎりなく大きな一般の読者にとって役に立つだろう.辻さん,よろしく.岸さん,よろしく.


三中信宏(2017年3月26日)