『謎の漢字:由来と変遷を調べてみれば』

笹原宏之
(2017年4月20日刊行,中央公論新社中公新書・2430],東京, x+226 pp., ISBN:978-4-12-102430-5版元ページ|web中公新書著者に聞く」)

予想通りの好著である.漢字の変異と伝承という文化進化プロセスがきわめて具体的に書かれている.

第一部「日本の地名・人名と謎のJIS漢字」(pp.1-60)では,JIS漢字制定の基礎資料となった大部の地名資料『国土行政区画総覧』の除去号まで探索範囲を拡げ,JIS漢字として収録されているのに経緯が不明な「謎の漢字」のルーツをたどる笹原探偵のデスクワークとフィールドワーク.

続く第二部「海老蔵は鰕蔵か」(pp.61-100)では,17世紀の歌舞伎役者・市川海老蔵の「エビ」の漢字表記が「海老」と「鰕」のふたつある歴史的理由を江戸時代までさかのぼる.どこまで綿密に資料を調べ尽くせるかが鍵となる.

最後の第三部「科挙と字体の謎」(pp.101-207)では,中国の科挙制度と漢字文化とを関連づけて,漢字の字体に関してどこまで厳密さを要求するのかという今日的問題が浮上する.中国では隷書体から楷書体が発生するときにさまざまな字体変異が生じたという.たとえば「亀」の異体字は100以上もあったという.しかも,これらの字体の “ゆれ” あるいは多様性は科挙制度の進展のなかで寛容に受け入れられていたそうだ:

  • 「毛筆では,あるいは書道では,こうとしか書かないといった断定もしばしば見受けられるが,毛筆の運筆法に熟達した人や,拓本や版本などを通して書法の多様性をよく認識している人からは,そのような意見は聞かれないという傾向がある」(p. 131)
  • 「規範的,標準的とされる字体は,それらの中においてさえも,ある程度の字形の振幅が暗黙のうちに,あるいは明確に容認されていた.さらにそれらが後代に伝えられていく中で,新たな変動を起こし,その幅を広げることも避けがたかった」(p. 144)

しかし,科挙制度の末期となる清朝時代には漢字の字形に関する偏執狂的こだわりが表面化する.その史実を踏まえて著者は言う:

  • 「私たちは漢字の本質から離れた本末転倒な,正しい字体どころか細かな字形,一つの書風を再現する能力に偏った評価を与えることによって,人材を見損なうこととなった清朝の末期的な状況を思い返す必要があるだろう」(p. 207)
  • 「字形,筆順(書き順),画数,部首には,原理的にも,歴史上も,辞書間でも,そして常用漢字表の目安という性質上も,絶対と呼べるものが存在しない.そうした事実をふまえた以上,どれか一つを任意に標準と見なしてそれだけを正しいとすれば,不条理な事態も避けがたく生じる」(pp. 216-7)

漢字の字形や字体にある種の “規範” を求めることは,一般に多様性というものを人間が理解するときの “習性” というしかないだろう.著者は漢字字典のもつ歴史的な傾向性を指摘している:「漢字の辞書は,たとえ記述を旨としたものであっても聖典(カノン)のように扱われる宿命を負うのである」(p. 141).『説文解字』も『康煕字典』も『諸橋大漢和』もその例外ではない.一連の笹原本を読むと,現在まで生き続けてきた漢字の系譜のダイナミクスをそこかしこで体感することができる.