『ニッポンの書評』

豊崎由美

(2011年4月20日刊行,光文社[光文社新書515],東京,230 pp., ISBN:978-4-334-03619-5目次版元ページ

【書評】※Copyright 2011 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

書評ワールドの多様性とその保全について

連休中の寝読み本の一冊.プロの書評者として活躍している著者が“トヨザキ”スタイルの「書評の極意」を伝授してくれる.これまで雑誌やネットでたくさんの書評を書いてきた私としてはぜひとも読まないわけにはいかない.



本書の本論は講義形式で進められる.しかしその前に,巻末のトツゲキ対談「ガラパゴス的ニッポンの書評 —— その来歴と行方」(pp. 181-227)をあらかじめ一読しておくと,書評に対する著者自身のスタンスといまの日本での書評が置かれている文脈が理解できる.今の日本における「書評ワールド」の考現学を論じるのが著者であるとしたら,対談者・大澤聡はそのような日本書評ワールドが形作られてきた来歴をさかのぼる考古学者の役回りである.内田魯庵や戸板潤という名前が書評史とも関連づけられて登場するとは知らなかった.



世の中にはとても長い書評がある.かつて1859年にチャールズ・ダーウィンの『種の起源』がロンドンで出版され,大きな反響を呼んだ.その翌年,ダーウィンの宿敵リチャード・オーエンは匿名で『種の起源』の書評を Edinburgh Review 誌の第111巻(1860)に掲載した(→ 元記事).そのベージ数たるや実に46ページにも及ぶ大書評論文だった.当時は,このような何十ページにも及ぶ長文の書評はけっしてめずらしくなかった(→ ダーウィンの著作への同時代書評のリスト:Darwin Online).おそらく,本や雑誌の文章を読むスタイルが現在とはまったく異なっていたという文化的背景があるのだろうと推察している.



現在の読者が雑誌やネットで日々目にする書評(らしきものも含む)の形式は,歴史を背負った社会現象のひとつである.19世紀のイギリスにあったような,あるいは現在でも New York Times Book ReviewTimes Literary Supplement あるいは Complete Review に見られるような「詳細にして徹底的」な書評は,個人的にはとてもうらやましい文化的伝統だと思う.



現在の自然科学系の学術雑誌でも,ジャーナルの編集方針として長文の書評記事を掲載するものもある.たとえば,生物体系学の専門誌である Cladistics 誌は刷上りで10〜15ページもの長さの書評論文が載る(最近の書評では,たとえば:James S. Farris 2011. Systemic foundering. Cladistics, Volume 27, Issue 2, pages 207-221, April 2011 → DOI: 10.1111/j.1096-0031.2010.00331.x を挙げることができる).このような書評論文の目的は,「読者のために」というよりは,むしろ「書評者のために」あるのだろう.このような好戦的な書評論文は,それを契機として新たな論争が勃発することも少なくない.



この本のおもしろさは,具体的な単行本(ほぼすべて小説のジャンル)を取り上げて,「いい書評/ワルい書評」をあからさまに添削指導してくれるところにある(著者自身の書評文も俎上に乗る).それとともに,プロの書評とアマチュア書評のちがい,アマゾンのカスタマーレビューその他ネット書評の陥穽,新聞書評の通信簿が次々と講義される.



書評に対する著者の基本スタンスは「読者のための読んでおもしろい書評」というスローガンに尽きる.確かに職業的な書評者としてのニッチを開拓するためには,文芸批評や評論とは異なる存在理由を求めなければならないのだろうと私は理解した.基本的に短い書評枠しか用意されていない日本の書評ワールドのなかで,著者はいかにしてそのスローガンを達成できるのか.本書を読み進むとともに読者はその「わざ」を垣間見るだろう.



実際,私が過去に担当したことのある依頼書評だと,たとえば日経サイエンス誌の書評欄は「17字×86行=1,462字」が本文字数の規定だし,bk1のブックナビゲーターをしていたときはひとつの書評は「800字」が上限だった.本書の著者の言うとおり,けっして十分なスペースが与えられるとはかぎらない日本の書評ワールドで,よりよい書評内容をいかにして読者に見せられるかは書評者としてつねに考えなければならない.その意味で,この新書は書評を読む側と書く側の双方にとって教えられる点が多い.



本書に登場する単行本はすべて文芸作品であり,その点で著者の主張は,自然科学や科学哲学分野の本を書評する機会が多い私自身の経験とはかなりズレているところもある.たとえば,著者は小説を書評する際の「ネタばらし」の問題に言及しているが,自然科学系の本ではそういうことはもともと生じようがない.著者とはちがって,私の基本路線は「自分のための書評」にある.読了した本の内容とそのインパクトを文章にまとめることは,他の読者のためではなく,ほかならない自分自身のためだから.そのようなスタンスで書いた文章が運よく誰かの役に立ったとしたら,それは文字通り「望外」の喜びということだ.私が雑誌やネットで書評を公開するときは昔も今もこのスタンスを守るようにしている.書評は利己的であるべきだというのが一貫した(職業的書評家ではない)私の信念だ.



さらに言うならば,同じ「書評」であっても,著者と私では書評ターゲットとして読んでいる本のタイプと書評の目的が根本的にちがっているのではないかと思える点がある.著者は書評のあるべき姿をこう述べている:

わたしの考える書評は作品という大八車を後ろから押してやる“応援”の機能を果たすべきものです.自分が心から素晴らしいと思った本を,簡にして要を得た紹介と面白い読解によって,その本の存在をいまだ知らない読者へと手渡すことに書評の意味と意義があるんです.(p. 150)



確かに,書評のもつ上の意義には異論はないだろうし,そういう書評を私もできるだけ心がけるようにしている.



その一方で,著者はこうも言う:

問題は,取り上げた本を利用して己の思想を披瀝する輩です.つまり,相手の土俵に上がるのではなく,自分の土俵に書評対象の本を無理矢理引っ張り込み,相手が無抵抗なのをいいことに自分の得意技でうっちゃる,そういう蛮行をふるうタイプの書き手.私は,そんな輩を優れた書評家とは思いません.(pp. 164-165)



これは困ったなあ…….この「書評家倫理」に従うかぎり,私が日常的に読んでいる好戦的な書評論文は存在し得なくなり,リングサイドで観戦しているわれわれ研究者はその愉しみを奪われることになってしまうだろう.いい本を世に知らしめるという書評もあれば,ストリート・ファイトのような書評があってもかまわないのではないか.そもそも,専門書の場合,ある本がフルボッコになったとしても,著者自身あるいは支持者がそれを上回る反撃書評をぶつけてくることが学術系ジャーナルではよくある.それもまた,科学という行為のひとつの側面として私は楽しんでいるし,なくなってほしくない.



私のかぎられた経験では,書評は単にテキストとしての文章だけの問題ではない.ある本を書評しようとした時点で,さまざまな妨害や横槍が入ったりすることは皆無ではない.科学者の世界である本の書評をするということは,それを支持するにせよしないにせよ,研究者コミュニティの中で闘いを挑むことに等しい.「武器としての書評」という視点が私個人にとっては必要だ.著者は「トヨザキ書評ワールド」の中で,書評一般についての自らの考えを本書で一般に開陳した.それはよく理解できるのだが,同時に「トヨザキ的」ではない書評にも独自の存在価値があると私は考える.



書評の書き手と読み手はかならずしも単色ではない.書評に期待する役割もまた人によってちがっているだろう.書評ワールドの多様性は十分に保全されてほしい.



[補足]この本録(leeswijzer)への過去の投稿の中で,私自身が「書評行為」に関して言及している記事がいくつかある.いい機会だから下記に列挙しておこう:



三中信宏(2011年5月3日)