『越境する書物:変容する読書環境のなかで』

和田敦彦

(2011年8月5日刊行,新曜社,東京,362 pp.,本体価格4,300円, ISBN:9784788512504目次版元ページ著者ブログ

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歴史的・時空的に変遷する「系譜」としての蔵書

本書は,予想した通り,前著:和田敦彦『書物の日米関係:リテラシー史に向けて』(2007年2月28日刊行,新曜社,東京,ISBN:9784788510364書評目次版元ページ)を発展させた内容だった.個物としての“トークン”である書物ならびにその集合体としての蔵書がたどってきた歴史(著者は「リテラシー史」と呼ぶ)を,主として日米間の図書流通の事例を通して探る.序章で述べられている著者の問題提起は本書全体を貫く柱となる:

書物の流通や収集,所蔵,管理といった問題は,一見,二次的で副次的な問題として捉えられがちだ.…… だが果たしてそれでいいのだろうか.書物の場所を問うことは,奇妙な周辺的な問いであってこれらの研究と関わりのない事象なのだろうか.いや,むしろ,この問いのなかには,それぞれの学問領域にとってこれまで見過ごされてきた重要な問題が数知れずひそんでいるのではないだろうか.(p. 13)



書物の場所を問い,その流れを追うという問題意識の根底には,私たちがいかに読み,書く行為と関わってきたのか,そして関わっていくのか,という問いが横たわっている.その問いは,現在私たちがどのような書物を,どのような形で手に取るのかという行為そのものに向けられた問いであり,私たちの情報環境自体を歴史的にとらえなおす契機,端緒ともなるだろう.書物の場所と移動を問うという本書のねらいはそこにある.(p. 14)

「私たちは「自由に」読んでいるわけではないのだ」(pp. 13-14)という著者は,たとえインターネットを通じて世界中の書物が手元のディスプレイ上で“読める”ようになった現在にあっても,書物の「場所」の問題が消え去ったわけではないと言う.

第1部「越境する書物」では,米国における日本語ライブラリーの形成史(第1章),第二次世界大戦前後の日本語文献コレクションの海外への移動史(第2章),そしてライブラリーのマイクロ化・デジタル化に伴う新たな読者層への浸透など,前著の延長線上にあるテーマが論じられている.とりわけ,第3章「今そこにある書物:書籍デジタル化をめぐる新たな闘争」では新たな柱が建てられている.それは,昨今の電子化ドキュメントが提起する問題である.



1980年代末に実施された国立国会図書館丸善による明治期刊行図書マイクロ化プロジェクトや近年進められているグーグルブックス図書館プロジェクトを例に挙げながら,著者はモノとしての本が電子化されることの意味を論じている.書籍のマイクロ化とデジタル化は手法こそちがっていても,その目指すところは同じである.この点に関する著者の主張はとても興味深いのだが,ここではそれが研究活動とどのように関わるのかに着目しよう.近年の商業学術誌の異常な価格高騰(「ジャーナル・クライシス」)について,著者は出版社側だけでなく研究者側にも不作為の罪があるだろうと指摘する:

重要なのは,この問題の責任は,図書館,あるいは出版社ではなく,むしろそれぞれの領域の研究者たちにもあるという点である.より正確には,研究者たちが,研究成果を流通,提供する仕組みにまで関心を向けてこなかったという点にある.もしもそれぞれの学会や学術機関が,その成果をデジタル化し,オンラインで無償で提供するような共通理解が出来上がっていれば,商用のデータベースに対抗する大きな力となっていただろう.(p. 135)

オープン・アクセスという概念に代表されるこの新しい考え方に対して,研究者やそのコミュニティがどれくらい真剣に向きあおうとしているか,そしてそのようなデジタル・ライブラリーのリテラシーを要請しようとしているかが肝要であると著者は言う(p. 137).第一に,デジタル化された情報の「メタデータ」への批判的な視点とともに,物理的なモノがもつ「フィジカル・アンカー」としての役割に著者は注目している:

読者がデジタルライブラリに対するリテラシーを培っていくうえで重要なもう一つの存在は,読者にとっての物理的な参照枠,フィジカル・アンカーである.簡単にいえば,それは物理的な本の形や棚という存在,物理的な図書館という「箱」の存在である.それはモノとしての書物,そしてそれを置く場所としての書架,図書館,書店といった物理的な存在である.(p. 138)



実は,複製され,偏在する書物の増加,デジタルライブラリの普及は,逆に物理的な書物や書物を置く場所,あるいはそれを運び,もちらす具体的な人といった存在を,必要でなくするというよりも逆に重要なものにしていくのではないか,というのが私の考えである.(p. 138)

著者のいう「フィジカル・アンカー」の果たすべき役割は次の通りである:

物理的な書物,はじめと終わりがはっきり形をとった書物,そして壁をもって明確にはじめと終わりのある場所,そうしたフィジカルな支え,基準点がないまま,偏在する膨大なデジタルデータを前にしても,それらを位置づけることはできず,個々の情報に翻弄されるしかなくなる.私がここでフィジカル・アンカーとして重視しているのは,こうした情報の参照点,アンカーとなる物理的な枠組みである.(p. 139)



モノとしての書物や書物の場所,仲介者を,単なるノスタルジーから評価するのではなく,感情的に固執するのでもなく,流動し,偏在する書物を読者が自らの生きる空間に結びつけ,つなぎとめるためのよりどころとして,改めて考える必要があるだろう.こうした具体的な形をもったよりどころ,いわばフィジカル・アンカーがあることで,私たちは情報を全体性や体系性のもとに位置づけることが可能になるのだから.(p. 140)

この末尾の文章に出てくる情報の「全体性や体系性」という概念は,著者が思い描く情報の“存在論”と深く関わっている.書物の「断片」としての「情報」だけでは不十分であるということだ.歴史的叙述である第2章「書物の戦争・書物の戦後:流れとしての占領期接収文献」の中で,著者は次のようなヴィジョンを述べている:

それぞれの書物の作者や,書かれている内容よりも,接収文献を一つのまとまり,あるいはそこから枝わかれしたいくつかの情報のまとまりとしてとらえる方法をとる.こうしたアプローチがなぜ必要なのだろうか.個々の文献をいかに読むか,読むとはどういうことか,といった議論を展開することも重要ではあるが,それ以前に,そもそもその書物がどこにあり,どこで読めるのかという基本情報が不十分では,そうした議論は不毛なものとなりかねない.また,私たちが読んでいる書物が,特定の人物によって削られたり,改変されたり,存在そのものが抹消されたりしていたとしたら,私たちが「読んでいる」土台そのものが揺らいでしまう.(p. 55)

たとえ,デジタル化された情報断片であったとしても,そのルーツは時空的に限定されたフィジカル・アンカーという進化的(歴史的)実体である.著者はそこに眼を向けることが重要だろうと指摘する.異議なし.



第2部「書物と読者をつなぐもの」では,歴史的に形成されたライブラリーとそれをのちに手にする読者との中間に介在する人物・組織・機関などに光をあてる.第4〜8章はケーススタディーとしていくつかの事例を取り上げる.著者の問題設定について第5章では次のように書かれている:

書物やそれを書いた著者について私たちは言及し,引用し,研究する.しかし,それらの書物をそこにもたらした人々や,それら膨大な書物を整理し,容易に見つけられるような仕組みを準備した人々にはあまり言及することがない.というよりも,書物がそこに当たり前のようにある,と考えるかぎり,それら[の]人々の活動は読書環境の一部としてとけ込み,不可視の存在となるのだろう.書物を書き残した人々ではなく,書物を提供した人々,書物と読者の仲立ちをしたした人やものについて,私たちはどれだけ言葉にすることができるのだろうか.(p. 166)



書物と読者のつながりは,自明なものではない.本章で追ってきたのは,書物と読者の間にある存在であり,さまざまな書物や人々の流れやつながりを通して,その存在をうきぼりにしてきた.仲介者の果たしたすぐれた役割は,,その書き残したものを通してよりも,こうした流れやつながりを介してしか見えてこないのである.書物の流れや場所をとらえるという方法は,こうした書物と読者の仲介者の意味や役割をも明らかにする可能性をもっている.(p. 189)

情報断片としての「本(の一部)」ではなく,その総体がたどる歴史的変遷の過程に注目する立場から見れば,ここでいう仲介者は変遷プロセスを進める積極的なエージェントとして機能するとみなされるのだろう.



このような一連の考察を踏まえて,終章「リテラシー史から見えるもの」では,「系譜」としてのライブラリーが必然的にもつ時空的次元が,現在に生きる読者にとってもつ意義を総括する:

本書で扱っているのは書物の流れであり,それは私たちが何を読むことができ,何を知ることができるか,という情報環境の根幹をなしている.もしもこの書物の流れが操作されたり,せき止められれば,何が起こるかは明白だろう.本書でも扱った通り,検閲や流通,販売,流通経路の統制や変化,仲介者の存在など,さまざまな形でそれは実際になされてきたし,なされてもいる.(p. 298)



つまり,書物や読書について歴史的に問うということは,こうした学問や知の基盤そのものの成り立ちを問題にするということなのである.どの学問領域でも書物を用いる.だがもしその学問領域の基礎をなしている書物が,あらかじめ排除や選別を受けてきたなら,その学問領域は根幹から揺らいでいく.そして,排除や選別から完全に自由な蔵書や学問などありはしない.(p. 298)

このような,書籍の置かれた社会的文脈は現場の研究者にとっても他人事ではない:

ほとんどの研究者は各種データベースや電子ジャーナルの恩恵を被っている.だがそれが届けられる仕組み,価格決定のプロセスや出版,契約形式について,利用している私たち研究者はどれだけ注意を向けてきただろうか.電子媒体の増加,そしてそれらへの依存とその価格高騰によって多くの図書館が直面している危ういこの読書環境は,私たち個々の研究者の無関心が招いたことではないのだろうか.(pp. 298-299)

この第II部では,日本における翻訳エージェンシーとして有名なタトル出版の企業活動についても詳しく書かれている(第7章).本書を読み終えて,歴史的実体としての「本」をめぐるコンテクストの広がりと深みを改めて実感した.前著と併せ読めば著者の一貫したスタンスが読者に伝わることはまちがいない.著者の提起する「フィジカル・アンカー」という概念は,本の電子化だけにとどまらず,博物館収蔵品の電子化(ヴァーチャル・ミュージアム)の問題にも通じるものがあると考える.



三中信宏(2011年9月24日)