『ビューティフル・マインド:天才数学者の絶望と奇跡』

シルヴィア・ナサー[塩川優訳]

(2002年3月15日訳,新潮社,東京,595 pp.,本体価格2,600円,ISBN:4105415018版元ページ

【書評】※Copyright 2002, 2012 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

20世紀前半のアメリカ数学史を描き出した伝記



主人公であるジョン・ナッシュのたどった人生の大きな起伏が,本書全体の骨格となっている.数学の天才としての前半生,精神分裂病の発病と寛解,そしてノーベル経済学賞の受賞という彼の軌跡は,小説そのものである.本書をベースにした映画「ビューティフル・マインド」が評判を読んでいるのも当然のことだ(原作の一部分しか映像化されてはいないのだが).



しかし,ナッシュの人生を本書の縦糸とするならば,彼と関わってきた多くの人々,とりわけアメリカの数学史を彩ってきた多くの著名人がその重要な横糸となっていることに気づかされる.主たる舞台であるプリンストンを象徴するアインシュタインをはじめ,ゲーム理論の礎を築いたフォン・ノイマン,そしてギャレット・バーコフ,ジャン=カルロ・ロータら,ナッシュと時代をともにした学者が名を連ねている.



関係者へのインタビューを交えた本書第1部――全体の2/5を占めている――は,ナッシュ自身の数学者としての経歴と業績を紹介しているだけでなく,彼が置かれた当時のアメリカ数学界のようすと,彼を取り巻いた学者たちの動向を描いている.ナッシュがノーベル賞を受賞するにいたったゲーム理論は,経済学だけでなく,現代の進化生物学にも大きな影響を及ぼした理論である.それがどのような背景のもとに生みだされたのかがわかって興味深い.



ただし,原書にはある脚注と索引が訳書では削除されているので,本訳書からはナッシュらの仕事を具体的にたどることはいっさいできない.



本書後半部分は,若くして精神分裂病を発病したナッシュが,現実と幻覚の世界を行き来しつつ,続く数十年にわたってどのように生きてきたのか,家族や周囲が彼とどのように接してきたのかがつづられる.きれいごとだけではすまないエピソードも率直に語られている.病状が進むナッシュに対して,プリンストン大学が長年にわたって籍を与え続けてきたのは,驚くべきことだと私は思った.



長年の治療と努力によるナッシュの病状の寛解,そして彼自身の変化を見つめた最終章(「目覚め」)は,この伝記の最後を飾るにふさわしい静けさと穏やかさを帯びている.600ページもある本書は,途中で投げ出さず,最後まで読み通すしかない.まさに「嵐」のような数十年を乗り切ったナッシュと彼の家族がどのような心境にいたったかは,この最終章になってはじめてわかるからである.



原書:Sylvia Nasar (1998), A Beautiful Mind: A Biography of John Forbes Nash, Jr. Simon & Schuster, N.Y., 459 pp.



三中信宏(2002年4月11日/2012年1月22日)

【目次】
プロローグ 8


第I部 ビューティフル・マインド 27

 1 ブルーフィールド(一九二八〜四五年)
 2 カーネギー工科大学(一九四五年六月〜四八年六月)
 3 宇宙の中心(プリンストン大学、一九四八年秋)
 4 才能の宝庫(プリンストン大学、一九四八年秋)
 5 天才の芽ばえ(プリンストン大学、一九四八〜四九年)
 6 さまざまなゲーム(プリンストン大学、一九四九年春)
 7 ジョン・フォン・ノイマン(プリンストン大学、一九四八〜四九年)
 8 ゲーム理論
 9 交渉問題(プリンストン大学、一九四九年春)
10 ゲーム理論のライヴァル(プリンストン大学、一九四九〜五〇年)
11 ロイド・シャプレー(プリンストン大学、一九五〇年)
12 知恵の戦争(ランド研究所、一九五〇年夏)
13 ランド研究所におけるゲーム理論の研究
14 徴兵問題(プリンストン大学、一九五〇〜五一年)
15 美しい定理(プリンストン大学、一九五〇〜五一年)
16 MIT
17 悪がき先生
18 理論検証のための実験(ランド研究所、一九五二年夏)
19 「赤い」学者たち(一九五三年春)
20 幾何学での功績


第II部 離れゆく生 239

21 特異点
22 特殊な関係(サンタモニカ、一九五二年夏)
23 エレノア
24 ジャック・ブリッカー
25 逮捕(ランド、一九五四年夏)
26 アリシア
27 プロポーズまで
28 シアトル(一九五六年夏)
29 死と結婚と(一九五六〜五七年)


第III部 ゆるゆると燃え出す火 309

30 オルデンレーンとワシントン広場(一九五六〜五七年)
31 原爆製造工場
32 秘密を解く鍵(一九五八年夏)
33 パウル・コーエン(一九五八年秋)
34 南極大陸の皇帝
35 竜巻の渦中で(一九五九年春)
36 バウディッチホールの夜明け(マクリーン病院、一九五九年四〜五月)
37 マッドハッターのパーティ(一九五九年五〜六月)


第IV部 失われた歳月 391

38 世界市民(パリおよびジュネーブ、一九五九〜六〇年)
39 絶対零度(プリンストン大学、一九六〇年)
40 沈黙の塔(トレントン州立病院、一九六一年)
41 強制された、理性の幕間狂言(一九六一年七月〜六三年四月)
42 単項的変換(プリンストン大学およびキャリア・クリニック、一九六三〜六五年)
43 ひとり暮らし(ボストン、一九六五〜六七年)
44 未知の世界における孤立無援の男(ロアノーク、一九六七〜七〇年)
45 ファインホールの幽霊(プリンストン大学、一九七〇年代)
46 デヴィッドとチャールズ(一九七〇〜九〇年)


第V部 もっとも価値ある存在 521

47 寛解
48 ノーベル賞
49 史上最大のオークション(ワシントンDC、一九九四年一二月)
50 目覚め(プリンストン大学、一九九五〜九七年)


謝辞 586
日本語版刊行にあたって――エピローグ 590
訳者あとがき 594