『親切な進化生物学者:ジョージ・プライスと利他行動の対価』

オレン・ハーマン[垂水雄二訳]

(2011年12月20日刊行,みすず書房,東京,viii + 514 + lxxxi pp., 本体価格4,200円, ISBN:9784622076667目次正誤表版元ページ

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共分散公式と宗教的回心のはざまで



本書は,生物の「利他行動(altruism)」の進化の研究にブレークスルー(「プライス共分散方程式」)をもたらしたジョージ・プライス(George Price: 1922 - 1975)の初の伝記である.プライスは自殺というかたちで自らの人生に終止符を打ち,ロンドンにある墓所には彼の生涯や業績を記した墓碑すらないという.これだけでも十分にドラマチックにして悲劇的な人生といえる.



しかし,プライスがどのような前半生をアメリカでどのように送ってきたのか,その後どのような経緯でロンドンにわたって利他行動の進化に関する研究に従事するようになったのか,そしてもっとも謎めいている晩年の歳月に関することどもは,本書の著者が探索する前はほとんどわからずじまいだった.



第I部は,アメリ東海岸にルーツをもつプライスの家系にはじまり,出生から幼年時代のエピソードが綴られている.第二次世界大戦前に入学したハーヴァード大学では科学史家トーマス・クーンと同学年だったとのこと.ただ,大学卒業後,プライスはその後死ぬまで続く“放浪”(知的放浪と現世的放浪)に踏み出すことになる.戦前から前後に及ぶ長い“放浪”の過程で,プライスは方々の大学や研究所そして企業での研究経験を積んでいく.戦時中はかの「マンハッタン計画」に関わってウラン蛍光分析法に関する研究をしたこともあったが,戦後はありとあらゆる研究テーマに関心を向けていたらしい.著者は「彼[プライス]は,どこからともなく突然現れて,科学の基盤についての論争の中心へ落下傘降下してきた」(p. 203)と書いている.



250ページに及ぶ本書前半の第I部では,プライスはときどき舞台に顔を出す脇役に徹している.第二次世界大戦をはさんだ時代のアメリカは,進化生物学史のなかでは「現代的総合(The Modern Synthesis)」という一大イベントが演じられていた.しかし,プライスがその興行に登場することはなかった.研究キャリア的にも浮かぶことなく,また私的生活でも結婚生活が破綻した彼は「名を成すことにまったく失敗していた」(p. 263)からである.しかし,そういう“負け組”であることになんら引け目を感じることなく,1967年,新天地をもとめて大西洋をわたりロンドンに到達する.



後半第II部は,ロンドンでプライスが送った学究生活から始まる.第9章「ロンドン」は,当時のイギリスの進化学コミュニティーのようすが詳しく描かれている.ウィリアム・ハミルトンやジョン・メイナード・スミスを代表とするビッグネームたちがフル出演する舞台でもあった.生物が自らの生命を犠牲にして他者を助ける「利他行動」はチャールズ・ダーウィンをおおいに悩ませた.その研究分野に,プライスが“落下傘降下”してきたのは偶然だったのだろうかそれとも必然だったのだろうか.



サンタモニカのランド研究所ジョン・フォン・ノイマンが開発した「ゲーム理論」の生物進化への適用を試みたプライスは,やがて彼の名を歴史に残す「共分散公式」を1970年代前半に Nature 誌に発表することになる.プライスが,ハミルトンやメイナード・スミスら同時代の進化学者たちとの密接な交流があったのはこのころのことである.それはプライスが「主役」としてスポットライトを浴びた一瞬のシーンでもあった.なお,プライスの共分散公式については本書の付録で解説が付けられているが,やっぱり難解なものはどうしても難解なままなのはしかたがないことだろう.



表舞台でのプライスが成し遂げた功績と時を同じくして,私生活ではその後の人生を方向づける「宗教的回心」があったことを,続く第10章「「偶然の一致による」回心」と第11章「「愛の」回心」では詳しく分析されている.プライスにとっての「利他主義」が,単なる研究テーマであることを越えて,人生の導きとなる転回(回心)となった背景はきわめて個人的なことだったようだ.



正直に言えば,進化の数理的研究と内面の宗教的回心が渾然一体となったこの時期のプライスの「真実」は,ワタクシ的にはとても理解しきれなかったことをここで白状しなければならない.マリオ・バルガス=リョサ西村英一郎訳]『密林の語り部』(2011年10月14日刊行,岩波書店岩波文庫 32-796-3],東京,359 pp., 本体価格840円,ISBN:9784003279632版元ページ)の一節に次のようなくだりがある:


もし対話を続けていたとしたら,彼は,自分のもくろみを包み隠さず教えてくれただろうか? たぶん教えてはくれなかっただろう.その種の決心,聖者や精神異常者の決心は公けにはならない.そのような決心は,人それぞれの理性の傾向のなかで,ぶしつけな視線に晒されることなく,心の襞で徐々に形を取り,他人の賛同を取りつけることもなく —— 他人はそれに賛同など決してしない —— 行動に移るものだ.また,その過程 —— 計画の立案と行動の転換 —— において,悟りを開いた者であれ,精神異常者であれ,聖者は,人々から疎遠になり,ほかの人々が踏み入ることができない孤独のなかに立て籠るだろう.(pp. 50-51)



いずれにせよ,ひとつだけ確かなことは,その「回心」の結果(あるいは精神疾患が亢進した結果),「聖者」プライスが自らの身の処し方について「重大な決心」をしたということである.それは他者に対する絶対的な利他主義,すなわち「アガペーの道」(p. 382)だった.



私生活においてホームレスへの施しと援助を開始したプライスは,一方で研究生活に軸足を残しつつ,しだいに「アガペーの道」を突き進むようになる.「科学者」プライスを一貫して支えてきた研究者たちの困惑ぶりが手に取るように描かれた最後の三章は,長年にわたって謎に包まれていたプライスの最期の日々を克明にかつ冷静に叙述する.1975年が明けて間もなく自殺を遂げたプライスの葬儀に立ち会ったのは,彼が援助してきた数人のホームレスたち,そしてほかならないウィリアム・ハミルトンとジョン・メイナード・スミスだけだったという.



プライスの人生は「悲劇」だったのだろうか? この伝記を読むかぎり,むしろそうではなかったのではないだろうか.生涯にわたって数多くの女性に愛されたプライスは実は幸せだったのではないかという逆説的な思いである.何よりも「常識ばなれの自分流」(p. 257)に徹した人生航路とその偏愛ぶりはうらやましいかぎりだ.もちろん,誰にでもまねのできることではないが,それだからこそよけいに,彼はいい人生を送ることができたといえるのではないか.



本書を読了して,まず思い出されるのは,ノーベル経済学賞を受賞したジョン・ナッシュの伝記:シルヴィア・ナサー[塩川優訳]『ビューティフル・マインド:天才数学者の絶望と奇跡』(2002年3月15日訳,新潮社,東京,595 pp.,本体価格2,600円,ISBN:4105415018書評・目次版元ページ)である.長年にわたって自分ひとりの世界をつくってきたナッシュの人生は,結末こそちがっていても,プライスの研究者人生と重なり合って見える.



本書は,巻末の長い謝辞に記されているように,一方ではプライスが遺した未公開の書簡や資料を踏まえつつ,他方では彼の遺族や関係者(その多くは進化学のビッグネームたちだ)とのインタビューをよりどころにしながら,謎の多かったプライスの生涯を掘り起こし光を当てている.綿密な考証に支えられたみごとな伝記である.



原書:Oren Harman『The Price of Altruism: George Price and the Search for the Origins of Kindness』(2010年6月刊行, W. W. Norton, New York, x+451 pp., ISBN:9780393067781 [hbk] → 版元ページ|宣伝YouTubeOren Harman and The Price of Altruism 」).原書も十分に厚いが,それにしても,こんなに早く本書の翻訳が出るとは予期していなかった.みすず書房の判型だと600ページ超の厚さになるのか.原書を読む前に翻訳が出てしまうと,なんとなくうれしいような先を越されたようなフクザツな心持ちになる.



三中信宏(2012年1月22日)