『給食の歴史』書評

藤原辰史
(2018年11月20日刊行,岩波書店岩波新書・新赤版1748], xiv+ 268 + 17 pp., 本体価格880円, ISBN:9784004317487目次版元ページ

【書評】※Copyright 2018 by MINAKA Nobuhiro. All rights reserved

 

学校給食をめぐる私的体験と公的制度としての変遷史

ある個人がかつて学校で毎日どのような「給食」が出されてきたかは,当人を取り巻くとても狭い “時空間” の中でのごくパーソナルな私的(食)体験と位置づけられてしまいがちだ.たとえば,ワタクシの場合,1960年代に小学生だったので,学校給食といえば「脱脂粉乳」「クジラの大和煮」「マーガリン」などという当時のキーワードが今でもすぐに思い浮かぶ.「脱脂粉乳」という言葉を目にしたとたん,アルマイト椀になみなみと注がれた生ぬるい脱脂粉乳を前にこの味ないもんをどうやって飲み干すかに苦労した日々が思い出される.そういえば栄養サプリメントだった「肝油」って給食のときに配られたような記憶もよみがえる.

 

光と影の思い出が交差する学校給食だが,当人が卒業してしまえば,彼や彼女たち個々人の記憶はほとんどの場合単なるプライベートな “昔話” の一コマと成り果ててしまうだろう.しかし,学校給食という制度それ自体は,ある個人が入学する前からすでに存在し,卒業したあとも存続し続ける.本書は,個人史に着目していたのではどうしても “盲点” となってしまう,日本の学校におけるパブリックな給食制度がどのような歴史をたどってきたか,そしてどのような社会的・政治的・経済的状況のもとで変遷していったのかをたどるユニークな本だ.

 

序章となる第1章「舞台の構図」では,社会制度としての給食のもつ特徴を観るいくつかの視座が提示される.日本の学校給食の共通的性格として,まずはじめに「家族以外の人たちと食べること」,第二に「家が貧しいことのスティグマを子どもに刻印しないという鉄則」,そして第三に「給食は食品関連企業の市場であること」の三点を著者は指摘する(pp. 8-9).続く章では,これらの国内的視座を踏まえつつ,同時に国際的な比較をしながら,時代を追って日本の給食制度の歴史をたどる.

 

第2章「禍転じて福へ――萌芽期」では,明治時代から第二次世界大戦敗戦に至る半世紀を論じる.度重なる天災や戦火のもとで,児童に食事を確保するという給食制度の根幹が時にぐらつきながらもしだいに構築されていく経緯がたどられる.続く第3章「黒船再来――占領期」は,第二次世界大戦後の占領軍総司令部(GHQ)が,日本の学校給食の制度をどのように方向づけていくかが中心テーマとなる.「脱脂粉乳」や「パン食」が給食の中で急速に浸透していく背景を知ることができる.

 

第4章「置土産の意味――発展期」は1950年代以降1970年までの給食制度をめぐる論議を追う.そして,第5章「最後の新自由主義と現場の抗争――行革期」は今の給食制度の現状を論じる.給食制度を推進する側とそれを批判する側の論争,学校ごとの給食調理室を廃止して,給食センター形式に統合する趨勢など,いくつもの問題点があぶり出される.国・自治体・学校・親の間ではてしないせめぎあいと利他的な尽力が現在の給食制度を支えていると著者は指摘する.

 

個人ベースの「給食体験」は時空的に限定されざるをえない.われわれはいつまでも小学生のままではいられないからだ.しかし,本書でも取り上げられる最近の自校調理方式の「ベスト給食」の事例は,機会があれば食べてみたいと思わせるものばかりだ.著者も同意見のようで,「これを私の職場の学食にそのまま導入してほしいと真剣に思った」(p. 3)とか「できれば,私の職場の学食に即刻導入してほしいメニューがこれでもかと登場し,私のように給食に良い思い出の少ない大人たちに軽い眩暈を引き起こさせるだろう」(p. 237)とまで述べている.京都大学の学食に難があるとは思わないが,どうやら今の学校給食はかつてのいまわしい記憶を払拭するほど “美味” らしい.

 

三中信宏(2018年12月31日)