黒岩比佐子
(2010年10月7日刊行,講談社,東京,446 pp., ISBN:9784062164474 → 目次|版元ページ)
出張巡業中の車中読書本として読了.序章「一九一〇年,絶望のなかに活路を求めて」と第一章「文士・堺枯川」は,主人公・堺利彦のやや屈折した前半生の記録から始まる.豊前から東京に出て遊興の日々を送った青年期を経て物書きとして自立するまでの紆余曲折.後年の“社会主義者”としての顔はまだまったく現れない十九世紀末の明治日本の話が続く.堺利彦も含めて周囲にいた知人たちはそろって外国語スキルに長けていた.同志の大杉栄にいたっては一回投獄されるたびに一言語を習得したという(「一犯一語」p. 20).「大逆事件」後の1910年代,本書の言う「冬の時代」に,堺が起こした「売文社」が翻訳まで含めた総合出版エージェンシーの運営を可能にしたのは,そういう人脈があればこそだったらしい.
続く第二章「日露戦争と非戦論」では,世紀の変わり目を背景にして,「冬の時代」が到来する前の不安定にして平穏な日々が描かれている.「売文」に対応する英語が「book making」であることを知った(p. 86).第三章「“理想郷”としての平民社」は平民社と平民新聞の顛末.社会主義の“同志たち”の内輪もめが最終的な解散にいたるまで.第四章「「冬の時代」前夜」は,“主義者”たちの投獄が日常となる「冬の時代」前夜の社会状況.社会主義者と無政府主義者との乖離はもう無視できなくなった.続く第五章「大逆事件」は力のこもった章.国家権力による冤罪事件として有名な大逆事件の遺族を堺利彦はひとつひとつ訪ね歩いたという.第六章「売文社創業」と第七章「『へちまの花』」ならびに第八章「多彩な出版活動」では,本書の中心である売文社について.出版エージェンシーとして力量を発揮した堺は,翻訳・代筆・編集のあらゆる面で活躍し続けた.
このように社会的に脚光を浴びる一方で官憲からは付け狙われた売文社ではあったが,第九章「高畠素之との対立から解散へ」で述べられているように,やがて社内派閥抗争が勃発し,最終的には消滅することになる.終章「一九二三年,そして一九三三年の死」のほろ苦いエンディングは,やがて到来する第二次世界大戦に切れ目なく続いていく.
膨大な資料と複雑な人間模様を解きほぐして叙述した本書は,“主義者”ではなく“出版人”としての堺利彦に新たな光を当てている.